いつもスウィング気分で
外苑前で彼女を降ろし、彼女はそこから電車に乗った。俺は車を置きに行ったため彼女より10分遅れた。彼女は既に席に着いていた。若杉が床を撫でるだけの掃除をしている。奴の次は森田秋子だ。彼女が大掃除に等しいくらいしっかりきれいにしてくれるので、若杉は手を抜いている。仕事の面でも彼女に頼り切っている。一日に何度俺は若杉の怠惰さに舌打ちすることか。だが彼女は何も文句を言わない。自分から崩れて行く男を彼女は決して救わない。だから奴の間違いさえ指摘しない。それで若杉が損をしたとしても奴が彼女を責められないということを彼女は知っている。そうして彼女はどんどんレベルの高い仕事を覚えていく。おい若杉、利用されているのはお前だぜ。もうじき28になる男がいつになったら目が覚めることやら。情けない奴だ。
「若杉さん、先週依頼されました算出データ、TSOで覗けます」
「悪いね」
「何だ若杉、また森田さんにおんぶに抱っこか。森田さんにも自分の仕事があるんだからあんまり頼るなよ。お前、仮にも上司だろ」
尚も何かを言おうとする俺に、いとも素っ気なく背中を見せ、キーボードを叩く。必要なデータを呼び出すと、ポンとページを最後に持って行き、オッケーと言いログオフした。おいおい1件1件チェックしておかないとトラブった時対処できないぞ。投槍も良いとこだ。
と、俺の机の電話が鳴った。
「はい、黒瀬です」
「あの・・・外線なんですけど」
交換手だ。勤務時間中は繋げない規則だ。
「はじいてくれ」
「それが・・・」
「どうした」
「何度も申し上げているんですけど10分おきにしつこく掛けてらして・・・」
「俺に?」
「いいえ、若杉さんになんです」
「誰なんだ」
「おっしゃらないんです。ただ若杉出しなと」
「わかった。繋いでくれ」
「はい。申し訳ありません」
すぐに電話は切り替わり、ざわめきが受話器の向こうに広がった。
「もしもし、お電話代わりました」
「若杉さんか」
ひどくざらついた声だ。
「いいえ、代理の者です」
若杉が後ろでキーボードを叩いているので名前を口に出来ない。奴のことだ、他人の電話に聞き耳を立てているだろう。
「どちら様でしょうか」
「あのね、お宅の会社の若杉さん、うちらに大枚借金があんの。3ヶ月滞納。わかる? 期限がとっくに切れてんだ。言っといてくんねえかな、3倍になってるってよ。早いうちから催促してやってたってのに、返せなくなるぜ。頼んだよ」
それだけ言うと不躾に電話は切れた。すぐに交換手が出た。
「すみません、聞いてました」
「盗聴か」
「いいえ・・・まあ、そうです」
「何かな」
「またかかって来ると思うんです。今日に始まったことではありませんから」
「いつからだ」
「半月の間毎日です」
「ふむ」
「いかがいたしましょうか」
「はじいてくれ」
「でも・・・」
「あまりしつこいようならボスに繋いでも良いよ」
「え!」
交換手の驚いた声と同時に若杉がこっちを向いた。まずいことを言ったかな。
「そんな事をしたら、大問題になります」
「構わない」
「はい」
電話を切った。若杉が目を逸らした。何てこった。親元でのほほんと暮らしている癖に何にそんなに金が要るんだ。女か? いいや違うな。女が居たら奴のことだ、俺の女が、と吹聴せずにはいられないはずだ。ギャンブルか、飲み代か、その辺りだな。親孝行のためとは到底思えない。俺は知らんぞ。ボスに話が行く前に自分でケリをつけろ。
「外線ですか」
端末を叩く森田秋子が振り返って言った。
「いいや交換だ」
「交換手とテレフォンデートですか」
「そんなとこだ」
彼女は笑っている。若杉は知らん顔だ。さては感付いたな。若杉、俺は寛大だぞ。今は何も言わないが、お前の出方を伺っているだけだということを忘れるな。
ところが冗談ではなく大変なことになった。次の日から若杉が出社しなくなったのだ。1日や2日なら事後連絡ということもあるので待ってはいたが、週が明けてからも連絡が無いので、放って置くわけに行かなくなった。第一仕事が溜まってしまっている。
若杉の家に電話をした。
「はい、若杉です」
母親らしき女の声だ。何か食べているようなクチャクチャという音が聞こえる。俺は少しムッとした。
「わたくし、ツカダソフトの黒瀬と申しますが、正さんはいらっしゃいますか」
「え?」
短い沈黙の後、口の中の物を飲み込んで母親は話す。
「正は居ないんですよ」
『居ないんですよ』の不自然な響きにすこしくイヤな予感がした。
「何時ごろお帰りになりますか」
「それが・・・1週間程家を空けてまして」
「は?」
「会社には行ってると思ってましたが」
何てこった。若杉は姿を消してしまった。サラ金に追いかけられてにっちもさっちも行かなくなったか。
「無断欠勤しています。連絡したいことがあるのですが、どちらにいらっしゃるかご存知ないでしょうか」
「はあ・・・サラ金から催促の電話があったりして・・・どこに居るかは・・・」
取り立ての電話が会社に来ていることは言わずにおこう。
「あの・・・正さんからご連絡がありましたら、こちらにご一報お願いいたします」
「はい、わかりました。申し訳ありませんね。仕事をほったらかしにするなんて。あの・・・クビになってしまうでしょうか」
「さあ、それはわたくしの決めることではありませんから」
話の内容の割には淡々としていてさほど心配しているようには聞こえない。
このことをボスに報告した。ボスは即座に解雇の書類を出すよう総務に指示した。退職願のサンプルだの退職届だのを含んだ書類が総務から若杉の自宅に送られることになる。手続きが進まない場合は一気に免職だ。退職金減額或いは無し。再就職もままならなくなる。
フロアでは若杉免職の噂が先行した。誰もが若杉のルーズな仕事が原因だと思っている。
「若杉さん、もう会社に来ないかしら」
シャワーの後のビールを旨そうに飲みながら森田秋子は言う。
「いくらあいつでも平気な顔で現れるってことは出来ないだろ」
これ以上の面倒は起こすなよと願っていた矢先、いとも簡単に面倒は起きた。会社にでなく俺にでもなく、森田秋子に。
「若杉さん、先週依頼されました算出データ、TSOで覗けます」
「悪いね」
「何だ若杉、また森田さんにおんぶに抱っこか。森田さんにも自分の仕事があるんだからあんまり頼るなよ。お前、仮にも上司だろ」
尚も何かを言おうとする俺に、いとも素っ気なく背中を見せ、キーボードを叩く。必要なデータを呼び出すと、ポンとページを最後に持って行き、オッケーと言いログオフした。おいおい1件1件チェックしておかないとトラブった時対処できないぞ。投槍も良いとこだ。
と、俺の机の電話が鳴った。
「はい、黒瀬です」
「あの・・・外線なんですけど」
交換手だ。勤務時間中は繋げない規則だ。
「はじいてくれ」
「それが・・・」
「どうした」
「何度も申し上げているんですけど10分おきにしつこく掛けてらして・・・」
「俺に?」
「いいえ、若杉さんになんです」
「誰なんだ」
「おっしゃらないんです。ただ若杉出しなと」
「わかった。繋いでくれ」
「はい。申し訳ありません」
すぐに電話は切り替わり、ざわめきが受話器の向こうに広がった。
「もしもし、お電話代わりました」
「若杉さんか」
ひどくざらついた声だ。
「いいえ、代理の者です」
若杉が後ろでキーボードを叩いているので名前を口に出来ない。奴のことだ、他人の電話に聞き耳を立てているだろう。
「どちら様でしょうか」
「あのね、お宅の会社の若杉さん、うちらに大枚借金があんの。3ヶ月滞納。わかる? 期限がとっくに切れてんだ。言っといてくんねえかな、3倍になってるってよ。早いうちから催促してやってたってのに、返せなくなるぜ。頼んだよ」
それだけ言うと不躾に電話は切れた。すぐに交換手が出た。
「すみません、聞いてました」
「盗聴か」
「いいえ・・・まあ、そうです」
「何かな」
「またかかって来ると思うんです。今日に始まったことではありませんから」
「いつからだ」
「半月の間毎日です」
「ふむ」
「いかがいたしましょうか」
「はじいてくれ」
「でも・・・」
「あまりしつこいようならボスに繋いでも良いよ」
「え!」
交換手の驚いた声と同時に若杉がこっちを向いた。まずいことを言ったかな。
「そんな事をしたら、大問題になります」
「構わない」
「はい」
電話を切った。若杉が目を逸らした。何てこった。親元でのほほんと暮らしている癖に何にそんなに金が要るんだ。女か? いいや違うな。女が居たら奴のことだ、俺の女が、と吹聴せずにはいられないはずだ。ギャンブルか、飲み代か、その辺りだな。親孝行のためとは到底思えない。俺は知らんぞ。ボスに話が行く前に自分でケリをつけろ。
「外線ですか」
端末を叩く森田秋子が振り返って言った。
「いいや交換だ」
「交換手とテレフォンデートですか」
「そんなとこだ」
彼女は笑っている。若杉は知らん顔だ。さては感付いたな。若杉、俺は寛大だぞ。今は何も言わないが、お前の出方を伺っているだけだということを忘れるな。
ところが冗談ではなく大変なことになった。次の日から若杉が出社しなくなったのだ。1日や2日なら事後連絡ということもあるので待ってはいたが、週が明けてからも連絡が無いので、放って置くわけに行かなくなった。第一仕事が溜まってしまっている。
若杉の家に電話をした。
「はい、若杉です」
母親らしき女の声だ。何か食べているようなクチャクチャという音が聞こえる。俺は少しムッとした。
「わたくし、ツカダソフトの黒瀬と申しますが、正さんはいらっしゃいますか」
「え?」
短い沈黙の後、口の中の物を飲み込んで母親は話す。
「正は居ないんですよ」
『居ないんですよ』の不自然な響きにすこしくイヤな予感がした。
「何時ごろお帰りになりますか」
「それが・・・1週間程家を空けてまして」
「は?」
「会社には行ってると思ってましたが」
何てこった。若杉は姿を消してしまった。サラ金に追いかけられてにっちもさっちも行かなくなったか。
「無断欠勤しています。連絡したいことがあるのですが、どちらにいらっしゃるかご存知ないでしょうか」
「はあ・・・サラ金から催促の電話があったりして・・・どこに居るかは・・・」
取り立ての電話が会社に来ていることは言わずにおこう。
「あの・・・正さんからご連絡がありましたら、こちらにご一報お願いいたします」
「はい、わかりました。申し訳ありませんね。仕事をほったらかしにするなんて。あの・・・クビになってしまうでしょうか」
「さあ、それはわたくしの決めることではありませんから」
話の内容の割には淡々としていてさほど心配しているようには聞こえない。
このことをボスに報告した。ボスは即座に解雇の書類を出すよう総務に指示した。退職願のサンプルだの退職届だのを含んだ書類が総務から若杉の自宅に送られることになる。手続きが進まない場合は一気に免職だ。退職金減額或いは無し。再就職もままならなくなる。
フロアでは若杉免職の噂が先行した。誰もが若杉のルーズな仕事が原因だと思っている。
「若杉さん、もう会社に来ないかしら」
シャワーの後のビールを旨そうに飲みながら森田秋子は言う。
「いくらあいつでも平気な顔で現れるってことは出来ないだろ」
これ以上の面倒は起こすなよと願っていた矢先、いとも簡単に面倒は起きた。会社にでなく俺にでもなく、森田秋子に。