いつもスウィング気分で
Memories
 独り暮らしの京子の部屋に、男が、沢口が居ついてしまった。不審に思った沢口の母親が興信所を使って自分の息子を調べさせた。たかだか息子の外泊に興信所も何も無いもんだ。京子の存在を知った両親が結婚するつもりが無いなら別れろと言うと、「じゃあ結婚します」と彼が勝手に話を進めてしまった。京子の両親は福岡で今でも健在だが、沢口家の人間が気に入らず、ギリギリまで結婚に反対だったそうだ。彼女としては、イヤだったら別れるわぐらいの簡単な気持ちで結婚してしまった。結婚当初から別れのタイミングを狙っていたが、そのうち子どもが出来てしまい、子どもの可愛さに別れることが出来なくなってしまった。
 男の子が生まれたことで、跡継ぎ製造マシンの役目は終わり、義母は孫に付きっきりで母親の京子よりも長い時間を過ごす。沢口は母親に頭が上がらない。
「自分の息子を『ボクちゃん』て呼ぶのよ。鳥肌もんでしょ」
 沢口のマザコンぶりに生理的に耐えられなくなり、傍に居るだけで虫唾が走るようになる。居ても立ってもいられなくなり、息子を連れて友人宅へ逃げ、夫へ離婚届を送り付けた。早速裁判になり、あっと言う間に閉廷。彼女はコテンパに負けた。料理は出来ない、掃除も裁縫もまるでダメ。おまけに子どもだってほーら私の方に懐いてるんですよ、と義母は言う。次元の低い議論の嫌いな京子は呆れて口をつぐんでしまった。
 秋子ならこんな結婚を選ぶだろうか。
「髪、切っちゃったんだな」
「そうよ。もうとっくの昔からこうよ。あなたと別れてから髪をバッサリ切ってそれから伸ばしたことはないわ」
 隣に座る京子の髪に手を伸ばした。サラサラと指をすべる長い髪はそこには無く、短い髪はパラリと指から離れる。
「今日は泊まってく?」
「ああ、良いよ」
 グレイのニットのワンピースの裾から手を入れて京子の体に触れた。
「子どもを産んだら体の線が随分崩れたわ」
「中絶しただけじゃ崩れないもんな」
「イヤねぇ、そんなこと口に出すもんじゃないわ」
 軽く俺の頬をぶった。ピシャリと音がした。
 胸に張りが無い。下腹が少したるんでいる。腰骨が張って尻も下がったようだ。肩にも丸みがついた。
「観察しながら抱かないで」
「バレたか」
「今の彼女と比べちゃイヤよ」
「比べられないよ。第一向こうは若い」
「失礼ね」
 比べられるものではないが、やはり若いだけあって秋子の体の線は綺麗だ。あの体も子どもを産むとこうなってしまうのかと思うと何だかもったいないような気がする。
「久し振りの男だったんだろ」
「どうして?」
「敏感だったからさ」
「感じてるフリをしてたのかもよ」
 おっとそこまでは量り知れない」
 窓を開けると京子は煙草に火をつけた。畳の上に散らばった服を足で掻き集め、それを枕にしてうつ伏せになった。缶コーヒーの空き缶にポンポンと灰を落とす。
「お前は変わってないな」
 京子の背中を枕にして俺は仰向けに寝そべった。テーブルを手で向こうに押した。
「あの頃の自分が好きなの。離れたくないの。あの頃のままの自分で居たいの」
「いつまでも子どものままでは居られないさ」
「そんなことわかってるわ」
 京子は今進学塾で数学の講師をしている。前夫と子どもは八王子の彼の実家に住んでいる。子どもに会うことは生涯まかりならぬと止められているし、電話も出来ない。3歳となれば母親の顔などすぐに忘れてしまうだろう。流石の京子も辛そうだ。
「何故あの時電話で幸福だなんて言ったんだ」
「見栄よ」
 ぽつりとそう言うと起き上がって服を着始めた。俺もゆっくりと服を着た。雨は小降りになったが止みそうにない。
「夕食にしましょうよ」
 だらだらと時を過ごし、もう夕方だ。そう言えば腹が空いている。
「外に出るのか」
「そうよ。食材無いもん」
「傘はあるか」
「さっきの1本だけ」
 白い服で来なければ良かったと本気で後悔した。何故白を選んだのだろう。不思議な心理だ。京子のレインコートや傘が黒だというのも面白い。俺たちの気持ちのすれ違いを象徴しているようだ。
 駅前のイタリアン・レストランまで相合傘で歩いて行き、食事をしながら京子の話を聞いた。
 汚い江戸弁を使う姑や、自主性が無く短気な夫の悪口やら夫婦生活のつまらなさ、子どもの可愛さ、etc・・・京子、お前はちょっと結婚してただけなのに随分世界の狭い女になっちまったな。昔は自分のことをくどくどと話すような女じゃなかった。つまらない人間になってしまったのはお前なんだ。
 秋子に似ていると思ったのは飽くまでも昔の京子であって、今のお前はまるで違う。つまらない男とのつまらない結婚生活がこんなにもお前を変えてしまったのか。元はと言えば俺のせいか・・・。
 食事の後アパート迄戻って俺はそのまま車に乗った。
「どうして? 泊まってってくれるんでしょう?」
 寂しそうに窓を覗き込む京子。その寂しさは俺じゃなくても癒せるさ。
「京子」
「何?」
「あの時別れたのは大きな間違いだった」
「やり直せば良いわ。今からだって遅くは・・・」
「いいや、やり直せない。だから別れたのは間違いだったんだ」
「陽一・・・」
「さよならだ、完璧に」
「陽一・・・」
「じゃ」
 パワーウィンドウが冷たく閉まる。手動の窓じゃこうはスマートに行かないな。
「もう電話しないわ」
 かすかにそう聞こえた時、車は砂利を蹴散らしてスタートしていた。バックミラーで京子が見送るのを確認し、何の未練も無く代官山へ向かった。やっぱり今の俺は秋子が好きだ。
 雨が止んだ。ワイパーを止めた。真っ暗だ。秋子は夕飯を食べただろうか。
 地下の駐車場に車を鼻から入れた。ついぞそんな粗末なやり方はしたことがないのだが、今日は何故かわざわざハンドルを切り返すのが面倒だった。正直に言うと、一刻も早く秋子の顔が見たかったのだ。エレベーターのボタンを意味も無く何度も押したりもした。部屋に秋子は居なかった。彼女のスリッパの隣に俺のスリッパが揃って並んでいる。暫くそれを見ていた。何故このスリッパはこうして並んでいるのだろう。答えは簡単だ。俺と同居している彼女もスリッパを使用しているからだ。そして彼女が出掛ける時、2足を並べて行っ たのだ。極々自然なことであり、何の不思議も無い。だが俺の目はそこに釘づけだった。2足並んだスリッパがひどく象徴的だ。先月までは1足が脱ぎ散らかされていたのだ。
 スリッパを履き部屋のドアを開けた。左手で照明のスイッチを入れると球形のフロアスタンドが付いた。きっちりと片付いた部屋にほんのりとムスクの香りが漂っている。どこに行ったんだろう。ガラステーブルの上に彼女の書置きがあることを期待したが、そこには新聞が畳んで置いてあるだけだ。置手紙などという甘ったるい物は2人の間には不要だ。ドアからソファへ歩いた。その2、3歩の間に彼女の行方について思いを巡らせた。4ヶ所浮かんだ。前の男の所、若杉の所、夕食に出ているのか、買い物か・・・どうも前の男に会いに代々木上原へ行っているような気がして落ち着かず、リモコンでテレビを付けてもチャンネルを変えても上の空だったその時、スーパーの袋を下げた秋子が部屋のドアを開けた。反射的に立ち上がり、帰ってたのと言いかける彼女を抱きしめた。
「ヨウ、どうかしたの?」
 抵抗しない彼女を尚もきつく抱きしめた。
「ヨウ、ちょっと待って。荷物が重いの。下ろさせて」
 そう言いながらも動こうとしない彼女を俺は力を緩めずに抱きしめていた。涙が溢れそうなほど、俺はその時秋子の姿に感動していた。買い物から帰って来ただけのいつもと何1つ変わらない彼女の存在が、たまらなく愛しかった。
「変な人」
 体を離すと、神妙な顔をしているだろう俺を見て彼女は笑った。
「昔の恋人、変わっちゃってた?」
 頷くと肩を竦めてもう一度笑った。そしてそのことには彼女はもう触れなかった。何をして来たかも俺の様子が変な理由も尋ねようとはしなかった。
「夕食は?」
 と言い、俺が済ませたと答えると、
「私はまだなの。勝手にやるわね」
 と言い、どこで何を食べたのか知りたがらなかった。
「若杉から電話あったか?」
 豚カツを揚げる彼女の背中に向かって俺は訊いた。
「ナシよ」
「彼からは?」
「それもナシ」
「おれの電話は?」
「私が居る間は誰からもかかって来なかったわ。でも買い物で30分くらい留守にしたからその間のことは知らない」
 揚がったカツをキッチンペーパーに載せて油を切ると、それを数個に切り分けて平鍋に置いた。豚カツにするのかと思ったら カツ丼だ。玉ねぎ半分を櫛切りにしてカツの上に散らし、ダシ汁でしばらく煮ると、今度は溶き卵を散らした。火を止めて出来上がり。30分もかからなかった。
「旨そうだな」
「旨いわよ」
「食べたくなった」
「すぐに出来るわよ。作りましょうか?」
「良いかな」
「勿論」
 俺の分の材料もちゃんと買ってくれてたってわけか。
 同じ事を繰り返してもう1人分のカツ丼が出来た。最初に作った方は冷めてしまった。丼の中で白飯がノビている。
「俺がこっちを食うよ」
 冷めた方を取ろうとすると、
「ダメダメ。これは私が私のために作った物なんだから私が責任を持って食べるわ」
「良いよ。俺のせいで君に冷めたのを食べさせるなんて、折角作ってもらって申し訳ない」
「つまんないこと考えないの。あなたのはこっちよ」
 今度は俺は無言で冷めた方の丼を彼女の手から奪った。意味も無く強引だったが、彼女はそれ以上追及せず黙って今できたばかりのを食べた。彼女が3分の1食べた時、俺は半分を超えていた。
「とっかえっこしましょ」
 と彼女は言った。
「え、でも俺こんなに食べちゃったよ」
「あなたのために作った方がご飯の量が多いの。だからその方が助かるわ。はい、まだ温かいから」
 そうして丼を取り替えて今度は俺は温かい方を食べた。
「温かい方が美味しいでしょう?」
「いいや、どっちもすごく旨いよ」
「そう? ありがとう」
 素直に礼を言う秋子の顔を俺は見た。俺たちはこのままで良いんだと俺は今思っている。無理矢理結婚に結び付けようとしたり、彼女の中の男の影を消し去ろうとしたり、彼女に俺の刻印を捺そうとしたり、そんな前時代的なことはしない。俺は俺、彼女は彼女、それが今はっきりと目から鱗が落ちるように確信できた。京子の変化に絶大な感謝。それまで俺の中で滞っていた諸々の事、若杉の事、京子の事、秋子の事、仕事の事、全てにかかった雲がきれいに流された。俺も少しは落ち着くだろう。
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