いつもスウィング気分で
New step
 12日間の最初の5日間はベッドの上で、後半1週間は寝たり起きたりの、彼女の言葉を借りれば「溶けたこんにゃくのようなぐーたらな」生活の後、彼女は社会復帰した。彼女が担当していたプログラムは関係のある小さなメンテも含めて全てペンディングになっていた。その中には若杉がほったらかしにしている物もある。若杉はと言えば、2週間以上無断欠勤している。ボスは若杉の懲戒免職を総務に指示した。訓告を通り越しての処分だが仕方あるまい。退職金は無しだし、再就職の際、企業側から採用者の事前調査が来たとしても彼にとって有利な報告は出来ない。まともな企業なら到底受け入れないだろう。
「若杉の後釜を誰にしようか考えたんだが・・・」
 秋子が社会復帰した月曜日の朝、俺はボスに呼び出された。週1の定例ミーティングの後に何事だろうと少しビクビクしたが杞憂だった。
「うちのチームの年功から言うと6年目の石母田さんでしょうか」
「いいや、彼女にはもう少し待ってもらう。彼女が上に立っても下が言うことを聞くとは思えない」
 腰掛け就職のつもりが予想に反して売れ残ったため、ただ小遣い稼ぎに勤めているだけの女性では、いくら添え花だとしてもあんまりだ。
「では5年目の相本ですか」
「うむ・・・」
 ボスはにやりと笑った。
「黒瀬、じらすなよ。1人忘れているぞ」
 子どもがいたずらを思い付いたような言い方だ。まさかとは思ったが、実は俺も同じことを考えていた。
「俺は森田さんが適任だと思うぞ」
 冗談のようだが彼は既に辞令を用意していた。相変わらず強引なほど手回しが良い。
「彼女が引き受けるとは思いませんが」
 セクションツーもスリーも度外視したこの突拍子もない任命に、彼女より年功が上の者たちの反発は免れない。ボスは随分と彼女をお気に入りのようだ。
 昼食後心なしか歩き方に元気の無い彼女に追い付いて、サブチーフに昇進の話をしようと思ったが、その俺を追い越した田中に邪魔されてしまった。今日明日にでもボスから直接お達しがあるだろうから、会社でわざわざ人目を忍んで話さずとも良いか。
「森田さん、君が居なくて寂しかったよ」
 見ているこちらが恥ずかしくなるような田中の行動。彼女の肩に腕を回し軽く抱き寄せる。彼女は優しく手を振りほどいた。
「嘘ばっかり。一度もお見舞いに来てくれなかったじゃないの」
「だってさ、男の人と一緒に住んでるんでしょ? 行けませんよ、恐れ多くて」
「だったら電話ぐらいしてよ」
「その男の人が出たらビビるよ」
「ばーか」
 ゆっくりと階段を上る彼女の後を俺と田中はついて歩いた。腰に手を当てているがそれと知って見るのでなければどこかが悪いとは思えない。
「森田さん、何の病気だったんですかね」
 小声で田中が俺に尋ねた。俺は肩を竦めて見せた。秋子はちらりと俺たちを見たが、素知らぬ顔をしていた。
 若杉免職の書類が総務から回って来た。判を押してまた総務に戻した。明日には若杉の家に届くはずだ。若杉自身の手に届くか否かは別として、いくつかの書類に誰かが書き込み、若杉の代わりに判を押し返信する。それがボスの手に届けばその時点で若杉は完璧に会社と縁が切れる。
「若杉が残して行った仕事、悪いが引き継いでくれないか」
「はい。そのつもりでいました」
 快く引き受ける彼女の背中にはいつも腰掛け就職のお嬢さん方や下半身目当ての狼連中の視線が向けられている。病み上がりの彼女の姿は適度に憂いを帯びて女は妬けるだろうし、男はにやけるだろう。
「私もお手伝いしましょうか。お一人では大変でしょう」
 次期サブチーフを意識しているのかいつもは決して自分から仕事を引き受けない石母田女史が、秋子にではなく俺にそう言った。俺は意地悪く、森田さんに訊いてみたまえと言ってやった。だが石母田女史の心中を察した秋子が、彼女が何か言う前に、大丈夫です、ありがとうございますと言った。秋子の方に顔を向けかけていた石母田女史は決まり悪そうに席に戻った。隣の席の相本が話しかけたが答えなかったようだ。自分の思い通りにならないと不機嫌になるのはお嬢様の悪い癖だ。クリスマスケーキをとっくに過ぎて、まだ恋人の1人も居ないのを、周りのせい、仕事が忙しいせいと言って自分を決して省みない。ちょっとどうかしていると思うよ。和服が好きと言うくせに着付は出来ない、畳めない。茶道も華道も花嫁修業と称して習いはしたが、会社では他人のためにコーヒーも淹れてくれない、花も飾らない。掃除も、箒で床を撫でるように掃くだけ。掃除機があれば良いとのたまう。彼女も会社訪問でぶりっ子したんだろうな。最初からこんなだったらボスが入れるわけないんだ。流石のボスも見破れなかったと見える。
 その日秋子は残業せず、定刻に退社した。帰りがけに代々木上原の病院に寄ると朝話してたっけ。ついつい以前住んでいたマンションに寄って来はしないかと不安になってしまう。
 俺はパッケージテストの結果チェックに思ったより時間がかかり、家に着いたのは10時を過ぎていた。秋子は既に眠ってしまっていた。キッチンのワゴンに夕食が用意されていた。デッキにマンハッタントランスファーのアカペラをセットし、低く流した。フロアスタンドを一つにし、テーブルの下に置いた。1人で食事をしてはいるが背後に彼女の息遣いがあるだけで、独りではないのだという確かな安堵感が、冷えた料理をまずくさせない。不思議だな。
 コーヒーは朝食のためにセットされている。今飲んでしまうと新たに豆を挽かなくてはならなくなる。電動のコーヒーミルはうるさくて眠っている秋子を起こしてしまう。そこで紅茶を飲むことにした。紀ノ国屋で気取って買ったフォションのアップルティー。温めたティーポットにティースプーンで2杯。カチャカチャと食器の音で彼女を起こしはしないかと気にしながら、甘い香りの紅茶を淹れた。ソファに腰を下ろすとテープがB面に切り替わった。ヘッドが回転する小さな機械音で目が覚めたのか、ベッドの上で秋子がもぞもぞと動いた。
「帰ってたの」
「うん」
「ご飯食べた?」
「うん、ご馳走様」
「何してるの?」
「紅茶飲んでる」
「私も欲しい」
「良いよ、淹れようか」
「ありがとう」
「そっちに持ってくよ」
「うん」
 彼女は俺のワイシャツを寝間着代わりにしている。枕を背にあてがって上体を起こした。白いフロスティグラスのティーカップを2つ持ち、ベッドルームへ。
 一方を彼女に渡し自分のはナイトテーブルの上へ置いた。
「着替えてないのね」
 そう言えば腹ペコで帰って来て真っ先に食事に飛び付いたんだ。ネクタイを緩めボタンを2つ外した。
「今日ね」
「何?」
「代々木上原に行ったの」
「そうだったね」
「ううん、彼に会って来たの」
 少しドキリとしたが、それで?と返事をした。テープはMTの軽快なナンバーを立て続けに流している。
「お金貰って来ちゃった」
「何の?」
「手術代」
「素直にくれた?」
「くれたわ」
「素直に帰してくれた?」
「部屋には入れてくれなかったの」
「へー」
「女性のコロンの匂いがしたわ」
「君のじゃないのか」
「私はアマゾンは持ってない」
「へー」
「誰か居たんだと思う」
「住んでるのかな」
「そうかも」
「速攻だな」
「そんなもんよ」
「何とも思わないのか」
「私だって他人のこと言えないもん」
「それもそうだ」
 2人して声を揃えて笑った。
「いくら貰って来たんだ?」
「10万円」
「へー、現金で?」
「そうよ」
「金持ちだな」
「もうこれで本当に代々木上原と、あの人と縁が切れたわ」
「1つずつ片付くさ」
「そうね」
 1つ片付き、そしてまた新しい課題が生まれる。何も無くなったら平和で良いかもしれないが、きっとつまらない人生になる。秋子も俺もキビキビと生きている自分が好きだ。片手で髪を掻き上げる彼女の仕草やオフィスをカツカツと歩く彼女の後姿に俺はいつも緊迫した美しさを見出している。それは彼女が、存在するから生きているという偶発的な生き方ではなく、自分の1つ1つの動きを過ぎ去って行く1秒1秒に刻み込むような生き方をしているからだ。疲れているに違いない。いつかぽきりと折れてしまうかもしれない。その時は俺の出番だ。
「ボスがさ」
「え?」
「ボスが君をサブチーフにすると言ってたよ」
「そう」
 意外なことに彼女は驚きも抵抗もしなかった。
「イヤじゃないのか」
「別に」
「新支社の話はあんなにイヤがってたのに」
「考えが変わったの」
「何がきっかけだ」
「心のどこかに本当は出世欲が潜んでいたのかもしれない。飛び付くのはみっともないなんて見栄を張っていたのかもしれないし、猫を被っていたのかもしれない。自分でもわからないけど不思議とやる気になってる」
「へえ」
「良いのかな」
「何が?」
「私、やっても良いのかな」
「俺に訊くな。自分で答えを出すしかないよ」
「そうよね」
「まず、体を元に戻すことだ」
「そうね」
「どれくらいかかる?」
「1ヶ月かな」
「待ち遠しいな」
「今度からは気を付けてしなくちゃ」
 そしてまた2人して笑った。本当は笑い事じゃないんだけれど、沈んで傷を深くするよりは肩をすくめて笑い飛ばす方が何倍も心の強さや思いやりを必要とするんだってことは、お互い分かっている。
 紅茶をもう1杯入れるためにキッチンへ立った彼女を呼び止めた。くるりと振り返った彼女はフロアスタンドの光でシャツが透けてとてもセクシーだ。(終わり)
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