いつもスウィング気分で
「私、中学の時にその曲を聴いて、それまで全然気にしてなかったのに、雨の日と月曜日は憂鬱にならなくちゃと、アンニュイな気分になる振りをしちゃったりして、それで大人になったつもりでいたんです。思い込み激しい性格なんでしょうか」
「うん、あるある」
 そう答えたのは田中だ。若杉には応えようにもその手の知識が無い。黙っている。
「『てぃーんずぶるーす』の中に、『伏し目がちのジェームスディーン真似ながら』ってあるじゃん。それまでジェームスディーンなんて関心無かったのに、急に映画のこと調べたりして、似せちゃったりするわけ。高校ん時の話だけど」
「それじゃあ、ブームタウンラッツの『哀愁のマンデイ』なんか聴いたら人を殺しかねないなあ」
 と俺も口を挟んだ。
 若杉はニューミュージックってのも知らない。カラオケでは専ら演歌を唸っているが彼女たちの口からは演歌のえの字も出て来なかった。奴はこの店の後、彼女をカラオケに誘いたかったようだが、彼女がジャズが好きだと言うのを聞いて諦めたようだ。ジャズが好き、そうか俺と同じだ。
 若杉の奴、だいぶ格好つけたわりには収穫に結び付かなかったようで、金だけ払うとさっさと帰って行った。森田秋子は、代々木上原だからバスで帰ると公園の方へ歩いて行った。田中は、じゃ俺送るよと後を追って行った。奴は相模大野だと言っていた。大方今までも同じ方角なのを良いことに一緒に帰っていたのだろう。同棲の話も奴が最初に仕入れたネタかもしれない。
 残りの4人はとぼとぼと渋谷駅へ向かって歩いた。席を設けておいて1人白けてはさっさと帰った若杉は、チーム内であまり信用が無い。彼女はそれを見抜いただろうか。

 マンションの5階に俺の部屋はある。4人居るガードマンのうち一人は元警官なのだが、警官というよりもヤクザに近い風貌をしている。声もドスが利いているし言葉遣いも江戸弁で荒い。ガードマンとしては申し分無いのだが、俺は苦手だ。向こうも俺が気に食わないのだろう。夜中に帰るとただでさえ睨みの利く顔に更に胡椒とマスタードをまぶしたような顔をして俺を見る。ここには大学時代から住んでいるが、その頃の放蕩振りが原因らしい。今はかなり更生したのだからそろそろ見直してくれても良いと思うのだが。
 ポストには夕刊とガスの自動振替の領収証、注文していた本、そしてフランスで日本語教師をしている同級生からのエアメイルなどが入っていた。Kenji Ogawa・・・封をエレベーターを待ちながら切った。読みながら部屋に向かうことにする。一番奥の俺の部屋まで20m程ある廊下をゆっくり歩きながら読み、ドアの鍵を開けたところで読み終えた。
 小川とは大学時代からの仲だ。学部は違うがクラブが同じで奴とは妙に気が合った。女に対する考え方は全く違うのに、同じ女を好きになったりした。
 手紙には来春結婚すると書いてある。相手は日本国籍だが幼い時からフランスに居るので、精神も思想ももちろん言葉もまるっきりフランス人。父親が日本人で母親がベルギー人だそうだ。九州男児の父親は、娘が日本人の男を好きになったことをとても嬉しがり、一人娘だがくれてやる、日本でもどこでも連れて行けと言っているそうだ。
 あいつはフランスに骨を埋める覚悟で日本を離れて行ったのだ。芯の強い大和魂を持った男だ。彼を気に入った父親の目に狂いは無い。フランスでの結婚式には行けるはずも無いが、ハネムーンは日本だと書いてある。この野郎と頭の一つでもひっぱたいてやろうか。
 あいつも俺と同じ今年中に30になる。そうか、結婚してもおかしくない、寧ろ遅いくらいの年齢に達しているのだ。そう思った時、不意に森田秋子の顔が思い出された。今まで付き合ったどの女でもなく。まさか、何を考えているんだ、酔っているぞ。
 否定しながら俺はシャワーを浴びるためにバスルームの明かりをつけた。ゴキブリがそそくさと洗面台の下に入り込んだ。チェッ、ゴキブリ用の噴霧剤は効きもしない。さぞかし良く売れることだろう。硼酸軟膏と小麦粉を混ぜて作った団子は良く効くそうだが試す気にならない。ガスライター用のボンベのガスを吹きかければ一発で凍死する。あれは手に吹きかけてもひんやりとして白くなる。俺は専ら台所用洗剤で応戦している。うまく引っ掛けないとそこら中ヌルヌルになるが、噴霧剤で暴れ回るゴキブリもたちどころに動きが鈍くなる。それだけ有害な物質で食器などを洗っているわけだ。そんなことを考えながら汗を流し、もうくたくたに疲れていた俺はろくに髪を乾かしもせずにベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまった。
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