いつもスウィング気分で
やはり彼女は、あっと言う間に着替えてロッカールームから出て来た。ペイズリー模様の白いブラウスに鮮やかなブルーのタイトスカート、いつものクラッチバッグ。そして左手で髪を掻き上げる。
「お待たせしました」
「相変わらず速いね」
「ロッカールームに長く居ると違う香水の匂いが付いちゃいそうで」
言えてる。女どものあの香水という奴、何とかならないものか。シャネルの5番だかディオリッシモだか知らないが、付け過ぎだ。中にはシャンプーの匂いなのだろうか、髪の毛がやたら匂うやつがいる。やめて欲しい。近寄っただけで煮詰まりそうだ。森田秋子はいつもムスクの香りをほんのりとさせている。
受付でガードマンにIDを見せ、ドアの間をすり抜けると、俺たち2人は同時に、うっ、と声に出して立ち止まった。たまらなく暑いのだ。思わず顔を見合わせた。
「暑いな」
「暑過ぎです」
俺はワイシャツの袖を折り返した。半袖のワイシャツを着れば良いのだろうが、俺はどうも半袖が好きではない。
「そういうこだわりを持った人っていますよね」
と彼女は言ったが、良いとも悪いとも言わなかった。女が良い悪いをはっきり言わないのは、悪いと思っているか理解の範疇を越えているかどちらかだ。
「どこに行きましょう」
「まだ決めてないんだ。君の知っているところでどこかあるか」
「じゃあ神宮前まで電車で行きましょう」
そこへ行くと最初から決めていたように彼女は言った。割り勘は店を選ぶ権利まで平等にする。おごりとなるとおごられる方はおとなしくついて行くだけだ。もう一度言うが彼女に払わせるつもりはない。
明治通りにその店はあった。スパゲッティ専門のレストランの地下だ。「PAROLE」と書いてある。
「フランス語?」
「そうです」
「フランス料理?」
「全然。無国籍ですね。多国籍とも言うかしら」
彼女は先に立って階段を下り、体ごと寄りかかるようにして厚いガラスのドアを押した。カウンターが左右に伸びているのが見えた。カウンターの先は両方とも円形のフロアで、丸いテーブルが余裕を持たせて4個置いてある。右側のフロアに男客が2、3人居るだけで場所が良い割には流行っていないのではないかという気がした。
パーカッションだけのように聞こえる音楽がうっすらと流れている。さて右へ行こうか左へ行こうかと迷っていると、彼女は真っ直ぐカウンターへ向かった。
左端の席を俺に与えて自分はその隣に座った。
「テーブルに向かい合って座るの嫌いなんです」
カウンターの椅子はちゃんとした椅子ではなく、止まり木のような太いバーだ。背もたれが無ければ後ろにずり落ちてしまう。
店の雰囲気は一言で表すと、アフリカ。天井からはクジャクの羽で作ったサーキュレーターがぶら下がり、ゆっくりと回転している。牡鹿の頭の剥製が壁に掛けてある。壁から生えているという感じだ。カウンターの中にはウェイターが2人居る。その後ろにはウィスキーのボトルやらグラスやらが1マスずつ区切られた棚の中にきちんと収められている。カウンターの裏側にこまごまとした器具が置かれているのが見えるが、全体的に非常に片付いた閑散とした店だ。
彼女はメニューも見ずに、カラパナを2つと言った。
「すみません、勝手にオーダーして。私これが好きなんです。黒瀬さんに飲んでいただきたくて」
と笑った。俺はその方が助かる。慣れない店のテーブルに向かい合い、2人してメニューを睨み、店員を傍らに立たせておくよりスマートだと思う。彼女は適当に気の利いたことをしてくれるので、俺は初めて来た店で感じるあの変にそわそわした気分を味わわずに済んでいる。彼女は俺に気を遣っている。それなのにいかにも好き勝手にやっているという素振りだ。本当に好き勝手にやっているのなら、俺はこうも格好付きはしないだろう。なかなかうまい。誰にでも出来ることではない。慣れている。
「スプリングロールって黒瀬さん何のことだかわかりますか」
甘酸っぱいコバルトブルーの飲み物を、これは女の飲みもんだななんて考えながら飲んでいると、彼女が言った。
「スプリングロール? ハル・・・マキ・・・? まさかね」
「そう、その通り」
「春巻のこと英語でほんとにそう言うの?」
「らしいです。マスター、スプリングロール1つ下さい」
と、身勝手なように、だがスマートな話題運びで彼女は俺を決して慌てさせない。
「ドイツに遊びに行った友人が、ドイツ語で何て言うのか忘れましたけど、要するにスプリングロールを意味するドイツ語の看板を掲げた屋台をみつけたんですって。そこで売ってたのが何とこの春巻だったわけです」
「へえー、ドイツでも春巻食べるんだ」
「ですって。その人とこの店に来たことがあるんですけど、曰く、ここで出される料理はドイツ人が覚えた中国料理ってイメージなんですって。ジャーマンポテト食べます?」
初めて彼女は俺に同意を求めた。もちろん反対はしない。
「フランスに留学している友人が居るんですけど」
と彼女はカラパナのグラスから外したオレンジの皮を剥きながら言った。
「向こうじゃワインが1本100円かそこらで買えちゃうんですって。水がまずくて水代わりに飲むらしいですね。大学の教授が朝から飲んでて午後には赤い顔をしながら授業をするんですって。日本じゃ考えられませんよね。ワインなんてアルコールのうちに入らないと思ってるのかしら」
そこで彼女は俺にワインを飲むかと尋ねた。甘い飲み物の後にワイン・・・と俺は少しためらったが、彼女が珍しいワインだからと言うので承知した。
「マスター、ほら、こないだの赤ワイン」
彼女が先程からマスターと呼んでいる男は俺より2、3歳上と思われるハンサムな男で、彼女がにこやかに話しかけるのを見ると少し妬けたりする。彼は、今日は赤は仕入れなかったんだと言い白を持って来た。
「美味しい?」
と尋ねる彼女にとても優しい笑顔でそいつは答えた。
「優しい美味しさだよ。ラベルの通り」
なんだそりゃと思いながらラベルを見た。ドイツ語だということはわかったが、読めない。
「エルデナールプレラート? 確か白い神父とか言う意味だったかな」
とまたまたマスターを見る。白装束の神父がラベルに描かれている。だから優しい味ってことか。グラスに注がれたワインを1口飲んだ。ほんとに旨いのかどうかワインを知らない俺には何とも言えないが、ジュースみたいに甘い。
「アメリカに行った友人が」
随分外国に行った友達が居るんだな。なかなか飲み込めないワインを口の中で転がしながら俺はウンウンとうなづいた。
「フランス人の奥さんが居る男性と一度だけ浮気したんです。彼女ったらフランスはディープキスの本場だからさぞかし彼はキスがうまかろうと思って、期待してその場に臨んだら、とんでもない、口をあんぐり開けたまま舌をベロベロやるだけなんですって。それ以来彼と会うのはやめたと言ってました」
俺は「あんぐり」がおかしくて笑い出してしまった。フランスの女と結婚するという小川の、「あんぐり」開けた口をついつい思い浮かべてしまったのだ。彼女もつられて笑いだすと、もうどういうわけか2人して笑いが止まらなくなってしまった。カウンターの中に居る2人は呆れた顔で俺たちを見て、そして笑っていた。彼女と俺は涙をボロボロ流しながら必死で笑い転げた。不安定な椅子から落ちそうにもなった。こんなに笑ったのは久し振りだ。明日は腹筋が痛みそうだ。
その後オールド&ペリエを2杯飲み、ほうれん草のグラタンとパロル特製のパフェという奴を食べて終わりにした。甘いワインとパフェのせいで胸焼けがしそうだったが、彼女との会話が楽しかったので俺は満足した。
まもなく10時だがまだまだムッと暑くじわっと汗が滲み出る外気の中に出て、俺たちは大人しくなってしまった。
彼女はアルコールが顔に出るタイプだ。昨日もすぐに赤くなっていた。気分は悪くなさそうだ。ここで、送って行くよと言うべきなのか俺は迷った。田中は彼女が同棲していると知っていながら、強引に迫っている。俺は彼女の同居人に悪いような気がして言い出しかねた。それでもたまに吹き起こる風の中を明治神宮前駅ではなく表参道駅まで歩いた。そこからだと2人とも定期券で改札を通れる。俺は半蔵門線や銀座線のホームへ上る階段へは向かわず、彼女と並んで千代田線への階段を下りた。2人はいつもこうやって並んで階段を下りているのだと思えるほど自然に。俺は時刻表を見上げて言った。
「男と2人でこんなに遅くまで飲んでて彼氏に叱られやしないかな」
隣に立つ彼女も時刻表と時計を見比べながら言った。
「昨日も今日も彼は家に居ません。だから平気。でも、例え私が部屋に戻らない日が続いたとしても、彼は私をとがめる権利も資格も無いです。夫婦じゃないですから」
「結婚するつもりでいるんじゃないのか」
そいつと結婚なんかしてくれるなという願いと、なら何故一緒に住むのをやめないのさという非難を込めて言うと、彼女は非難の空気だけを受け取ってしょげたような素振りをした。
「すごく好きだった頃は彼のことしか考えられませんでした。私はこの人の奥さんになるんだと純粋に思ってました。そういう気持ちから尽くしてたと思います。でも今はただ同じ部屋に住んでいるだけ」
「一緒に住んでどれくらい?」
「1年半です」
「付き合ってどれくらい?」
「4年・・・かな」
「ご両親は同棲のこと知ってるの?」
「知りません」
この「知りません」はご両親が知らないこと意味するのか、知っているか知らないかを彼女が知らないことを意味するのか尋ねようとした時、電車がホームに滑り込んだ。俺は彼女の背中を軽く押し、反対側のドアに歩み寄った。座席とドアの間の空間に彼女は立った。ドアの脇の手摺りにしがみつく彼女を俺は電車に乗っている間ずっと見下ろしていた。彼女はずっとうつむいていた。表情は見えない。
再び明治神宮前。週の半ばだというのに酔客が多い。殆どが大学生だ。辺りに構わず大声で話し、男は女に、女は男に思わせぶりな視線を送る。俺にも覚えがある。独り暮らしは火遊びを覚えるのにあまりにも無防備だ。いつか大人になった時どんなに危険な状態に自分が置かれていたかに気が付いて身震いするに違いない。
代々木公園。数人降り、数人乗った。そして代々木上原。終点です、どなた様もお忘れ物ございませんようにと車内放送され、こちらのドアにジワジワと人が寄って来る。乗客の3分の2は反対側のホーム目がけて走る。そこにはほんの少し空席のある江の島方面への電車が待っている。彼女と俺はドアが開くと流れに押され、あやうくその電車に乗りそうになった。いきり立って駆けて行く人々を避け、彼女は体を縮め、俺は体を伸ばし、階段へ向かって歩いた。誰かが、こんなに乱暴にしないと電車に乗れないもんかねと疲れた声で言った。同感だ。
「駅からどれくらい?」
「8分くらいです」
「結構あるね」
「この時刻だと道はもう真っ暗」
改札で精算し、2人は並んで歩いた。このまま同じ部屋に帰るようだ。俺は彼女を送った後、再びこの駅に戻って来る。が、それが馬鹿らしい。駅員に、俺がただ女を送って来ただけだと思われるのがイヤだ。変なプライドだ。
エスカレーターは既に止まっていた。階段を2階分下りて右へ折れた。短い階段を上ると通りに出る。すぐに急な坂道があったが、彼女はそこへは向かわず、線路沿いの道を歩いた。喫茶店だの飲み屋だのが入っている茶色のビルの前に来た時、目の前にある喫茶店を指差して、ここに入りませんかと言ったが、俺は首を横に振った。この町が俺を歓迎していないような、何とも言えない居心地の悪さを感じる。彼女は残念そうに肩をすくめた。
「ここのマスター、俳優さんなんです」
と言った。脇役専門だが柔らかい雰囲気の俳優だと。名前を聞いたが俺はそういうことには疎いので、顔が浮かばない。
「お待たせしました」
「相変わらず速いね」
「ロッカールームに長く居ると違う香水の匂いが付いちゃいそうで」
言えてる。女どものあの香水という奴、何とかならないものか。シャネルの5番だかディオリッシモだか知らないが、付け過ぎだ。中にはシャンプーの匂いなのだろうか、髪の毛がやたら匂うやつがいる。やめて欲しい。近寄っただけで煮詰まりそうだ。森田秋子はいつもムスクの香りをほんのりとさせている。
受付でガードマンにIDを見せ、ドアの間をすり抜けると、俺たち2人は同時に、うっ、と声に出して立ち止まった。たまらなく暑いのだ。思わず顔を見合わせた。
「暑いな」
「暑過ぎです」
俺はワイシャツの袖を折り返した。半袖のワイシャツを着れば良いのだろうが、俺はどうも半袖が好きではない。
「そういうこだわりを持った人っていますよね」
と彼女は言ったが、良いとも悪いとも言わなかった。女が良い悪いをはっきり言わないのは、悪いと思っているか理解の範疇を越えているかどちらかだ。
「どこに行きましょう」
「まだ決めてないんだ。君の知っているところでどこかあるか」
「じゃあ神宮前まで電車で行きましょう」
そこへ行くと最初から決めていたように彼女は言った。割り勘は店を選ぶ権利まで平等にする。おごりとなるとおごられる方はおとなしくついて行くだけだ。もう一度言うが彼女に払わせるつもりはない。
明治通りにその店はあった。スパゲッティ専門のレストランの地下だ。「PAROLE」と書いてある。
「フランス語?」
「そうです」
「フランス料理?」
「全然。無国籍ですね。多国籍とも言うかしら」
彼女は先に立って階段を下り、体ごと寄りかかるようにして厚いガラスのドアを押した。カウンターが左右に伸びているのが見えた。カウンターの先は両方とも円形のフロアで、丸いテーブルが余裕を持たせて4個置いてある。右側のフロアに男客が2、3人居るだけで場所が良い割には流行っていないのではないかという気がした。
パーカッションだけのように聞こえる音楽がうっすらと流れている。さて右へ行こうか左へ行こうかと迷っていると、彼女は真っ直ぐカウンターへ向かった。
左端の席を俺に与えて自分はその隣に座った。
「テーブルに向かい合って座るの嫌いなんです」
カウンターの椅子はちゃんとした椅子ではなく、止まり木のような太いバーだ。背もたれが無ければ後ろにずり落ちてしまう。
店の雰囲気は一言で表すと、アフリカ。天井からはクジャクの羽で作ったサーキュレーターがぶら下がり、ゆっくりと回転している。牡鹿の頭の剥製が壁に掛けてある。壁から生えているという感じだ。カウンターの中にはウェイターが2人居る。その後ろにはウィスキーのボトルやらグラスやらが1マスずつ区切られた棚の中にきちんと収められている。カウンターの裏側にこまごまとした器具が置かれているのが見えるが、全体的に非常に片付いた閑散とした店だ。
彼女はメニューも見ずに、カラパナを2つと言った。
「すみません、勝手にオーダーして。私これが好きなんです。黒瀬さんに飲んでいただきたくて」
と笑った。俺はその方が助かる。慣れない店のテーブルに向かい合い、2人してメニューを睨み、店員を傍らに立たせておくよりスマートだと思う。彼女は適当に気の利いたことをしてくれるので、俺は初めて来た店で感じるあの変にそわそわした気分を味わわずに済んでいる。彼女は俺に気を遣っている。それなのにいかにも好き勝手にやっているという素振りだ。本当に好き勝手にやっているのなら、俺はこうも格好付きはしないだろう。なかなかうまい。誰にでも出来ることではない。慣れている。
「スプリングロールって黒瀬さん何のことだかわかりますか」
甘酸っぱいコバルトブルーの飲み物を、これは女の飲みもんだななんて考えながら飲んでいると、彼女が言った。
「スプリングロール? ハル・・・マキ・・・? まさかね」
「そう、その通り」
「春巻のこと英語でほんとにそう言うの?」
「らしいです。マスター、スプリングロール1つ下さい」
と、身勝手なように、だがスマートな話題運びで彼女は俺を決して慌てさせない。
「ドイツに遊びに行った友人が、ドイツ語で何て言うのか忘れましたけど、要するにスプリングロールを意味するドイツ語の看板を掲げた屋台をみつけたんですって。そこで売ってたのが何とこの春巻だったわけです」
「へえー、ドイツでも春巻食べるんだ」
「ですって。その人とこの店に来たことがあるんですけど、曰く、ここで出される料理はドイツ人が覚えた中国料理ってイメージなんですって。ジャーマンポテト食べます?」
初めて彼女は俺に同意を求めた。もちろん反対はしない。
「フランスに留学している友人が居るんですけど」
と彼女はカラパナのグラスから外したオレンジの皮を剥きながら言った。
「向こうじゃワインが1本100円かそこらで買えちゃうんですって。水がまずくて水代わりに飲むらしいですね。大学の教授が朝から飲んでて午後には赤い顔をしながら授業をするんですって。日本じゃ考えられませんよね。ワインなんてアルコールのうちに入らないと思ってるのかしら」
そこで彼女は俺にワインを飲むかと尋ねた。甘い飲み物の後にワイン・・・と俺は少しためらったが、彼女が珍しいワインだからと言うので承知した。
「マスター、ほら、こないだの赤ワイン」
彼女が先程からマスターと呼んでいる男は俺より2、3歳上と思われるハンサムな男で、彼女がにこやかに話しかけるのを見ると少し妬けたりする。彼は、今日は赤は仕入れなかったんだと言い白を持って来た。
「美味しい?」
と尋ねる彼女にとても優しい笑顔でそいつは答えた。
「優しい美味しさだよ。ラベルの通り」
なんだそりゃと思いながらラベルを見た。ドイツ語だということはわかったが、読めない。
「エルデナールプレラート? 確か白い神父とか言う意味だったかな」
とまたまたマスターを見る。白装束の神父がラベルに描かれている。だから優しい味ってことか。グラスに注がれたワインを1口飲んだ。ほんとに旨いのかどうかワインを知らない俺には何とも言えないが、ジュースみたいに甘い。
「アメリカに行った友人が」
随分外国に行った友達が居るんだな。なかなか飲み込めないワインを口の中で転がしながら俺はウンウンとうなづいた。
「フランス人の奥さんが居る男性と一度だけ浮気したんです。彼女ったらフランスはディープキスの本場だからさぞかし彼はキスがうまかろうと思って、期待してその場に臨んだら、とんでもない、口をあんぐり開けたまま舌をベロベロやるだけなんですって。それ以来彼と会うのはやめたと言ってました」
俺は「あんぐり」がおかしくて笑い出してしまった。フランスの女と結婚するという小川の、「あんぐり」開けた口をついつい思い浮かべてしまったのだ。彼女もつられて笑いだすと、もうどういうわけか2人して笑いが止まらなくなってしまった。カウンターの中に居る2人は呆れた顔で俺たちを見て、そして笑っていた。彼女と俺は涙をボロボロ流しながら必死で笑い転げた。不安定な椅子から落ちそうにもなった。こんなに笑ったのは久し振りだ。明日は腹筋が痛みそうだ。
その後オールド&ペリエを2杯飲み、ほうれん草のグラタンとパロル特製のパフェという奴を食べて終わりにした。甘いワインとパフェのせいで胸焼けがしそうだったが、彼女との会話が楽しかったので俺は満足した。
まもなく10時だがまだまだムッと暑くじわっと汗が滲み出る外気の中に出て、俺たちは大人しくなってしまった。
彼女はアルコールが顔に出るタイプだ。昨日もすぐに赤くなっていた。気分は悪くなさそうだ。ここで、送って行くよと言うべきなのか俺は迷った。田中は彼女が同棲していると知っていながら、強引に迫っている。俺は彼女の同居人に悪いような気がして言い出しかねた。それでもたまに吹き起こる風の中を明治神宮前駅ではなく表参道駅まで歩いた。そこからだと2人とも定期券で改札を通れる。俺は半蔵門線や銀座線のホームへ上る階段へは向かわず、彼女と並んで千代田線への階段を下りた。2人はいつもこうやって並んで階段を下りているのだと思えるほど自然に。俺は時刻表を見上げて言った。
「男と2人でこんなに遅くまで飲んでて彼氏に叱られやしないかな」
隣に立つ彼女も時刻表と時計を見比べながら言った。
「昨日も今日も彼は家に居ません。だから平気。でも、例え私が部屋に戻らない日が続いたとしても、彼は私をとがめる権利も資格も無いです。夫婦じゃないですから」
「結婚するつもりでいるんじゃないのか」
そいつと結婚なんかしてくれるなという願いと、なら何故一緒に住むのをやめないのさという非難を込めて言うと、彼女は非難の空気だけを受け取ってしょげたような素振りをした。
「すごく好きだった頃は彼のことしか考えられませんでした。私はこの人の奥さんになるんだと純粋に思ってました。そういう気持ちから尽くしてたと思います。でも今はただ同じ部屋に住んでいるだけ」
「一緒に住んでどれくらい?」
「1年半です」
「付き合ってどれくらい?」
「4年・・・かな」
「ご両親は同棲のこと知ってるの?」
「知りません」
この「知りません」はご両親が知らないこと意味するのか、知っているか知らないかを彼女が知らないことを意味するのか尋ねようとした時、電車がホームに滑り込んだ。俺は彼女の背中を軽く押し、反対側のドアに歩み寄った。座席とドアの間の空間に彼女は立った。ドアの脇の手摺りにしがみつく彼女を俺は電車に乗っている間ずっと見下ろしていた。彼女はずっとうつむいていた。表情は見えない。
再び明治神宮前。週の半ばだというのに酔客が多い。殆どが大学生だ。辺りに構わず大声で話し、男は女に、女は男に思わせぶりな視線を送る。俺にも覚えがある。独り暮らしは火遊びを覚えるのにあまりにも無防備だ。いつか大人になった時どんなに危険な状態に自分が置かれていたかに気が付いて身震いするに違いない。
代々木公園。数人降り、数人乗った。そして代々木上原。終点です、どなた様もお忘れ物ございませんようにと車内放送され、こちらのドアにジワジワと人が寄って来る。乗客の3分の2は反対側のホーム目がけて走る。そこにはほんの少し空席のある江の島方面への電車が待っている。彼女と俺はドアが開くと流れに押され、あやうくその電車に乗りそうになった。いきり立って駆けて行く人々を避け、彼女は体を縮め、俺は体を伸ばし、階段へ向かって歩いた。誰かが、こんなに乱暴にしないと電車に乗れないもんかねと疲れた声で言った。同感だ。
「駅からどれくらい?」
「8分くらいです」
「結構あるね」
「この時刻だと道はもう真っ暗」
改札で精算し、2人は並んで歩いた。このまま同じ部屋に帰るようだ。俺は彼女を送った後、再びこの駅に戻って来る。が、それが馬鹿らしい。駅員に、俺がただ女を送って来ただけだと思われるのがイヤだ。変なプライドだ。
エスカレーターは既に止まっていた。階段を2階分下りて右へ折れた。短い階段を上ると通りに出る。すぐに急な坂道があったが、彼女はそこへは向かわず、線路沿いの道を歩いた。喫茶店だの飲み屋だのが入っている茶色のビルの前に来た時、目の前にある喫茶店を指差して、ここに入りませんかと言ったが、俺は首を横に振った。この町が俺を歓迎していないような、何とも言えない居心地の悪さを感じる。彼女は残念そうに肩をすくめた。
「ここのマスター、俳優さんなんです」
と言った。脇役専門だが柔らかい雰囲気の俳優だと。名前を聞いたが俺はそういうことには疎いので、顔が浮かばない。