『掌編小説集』
第一章
1 .『序章』
 両手でバッグを抱えた痩せぎすの若い女が、鎌首を外壁からニュっと擡(もた)げて睥睨(へいげい)するガーゴイルを視上げ、遺跡かと視紛(みまご)う石造りの建物に入っていった。
 内川なる初老の警官が、居心地わるそうにカウンター内の机に齧りつき、文書を手にして読むふりをしていた。
 女は、「あの、お話ししたいことが… … 」と嗄れた声を発して内川を驚かせた。
 「えっ、ああどんなことでしょうか」そう言いながら、内川は苦虫噛み潰したような顔に愛想笑いを浮かべた。
 「多分ご存知の、さいきん起こった事件に関連することなんです」というと、女は青ざめた顔色を隠すように俯いてしまった。
 内川は、「お座りになって、これに記入を… … 」といって、机上に積み上げた更紙(ざらがみ)の一枚を女に差し出した。
 女は更紙を内川から受け取り、「昨日、郵便物が届きまして」といいながら、大事そうに抱えていたバッグから茶封筒を取り出した。封筒の表側には、宛先と共に向坂逸子(さきさか・いつこ)なる受取人名が、裏側には奥田俊朗と差出人名が手書きしてあった。
 内川は、二つ折りの文書を封筒から取り出すと机上に広げた。それは、4 0 0 字詰め原稿用紙に印刷された小説だった。主人公は著者と同名になっており、内容は眉唾ものの予言書かと想わせる体(てい)のものだ。
 今回の事件に直接関係ありそうな核心部分のみを拾い出すと、ざっと以下のようになる――「( 前略) 奥田は、しばしば徹夜でホラー小説を書く、売れない三文文士だった。
( 中略) 早朝、3 階の自室で珈琲を呑みながら、勤務先へと急ぐ勤め人の姿を眺めていた。通りを隔てた真向かいの高層ビルから、男が舗道に飛び降り、通行人2 人を巻き添えにした。舗道に鮮血が飛び散り、辺りが騒然となった。( 中略) 奥田は3 日前に書いた己れの作品の中に、よく似た描写があるのを想い出し、愕然とした。( 後略) 」
 たしかに、今回の事件の始まりはこの小説に酷似していた――最終章では、著者自身の死因にまで言及しているのだから、予言書のたぐいと視做(みな)してもあながち誤りではなかった。だが、奥田を真犯人と決めつけ、捜査を早々に打ち切ったのは妥当だったのか疑問が残った。
 内川の推論は、莫迦莫迦しい妄言ということになり、常識に凝り固まった署内の石頭連中と、掴み合い寸前の激論に到った。
 結局、内川の一ヶ月内勤という、当人にとって甚だ理不尽な謹慎処分でケリがついた。多少なりとも正義感のある者なら、内川を含め、ご都合主義ともとれる本件の措置には納得できなかったろう。
 小説そっくりな事件だったとはいえ、奥田の犯行とするだけの確たる根拠はなかった。しかし、最古参の内川と二人の新米刑事を除き、署内の大勢は捜査打ち切りの方向に向かい、早々(はやばや)と幕を降ろしてしまった。
 向坂逸子は、奥田の身の潔白を訴えるために、奥田が生前に投函したと思しい郵便物を警察署に持ち込んだ。しかも、受付の警官は署内で異論を唱え、幸か不幸か干されてしまった内川なるヴェテラン刑事だった。
 人間の取るにも足りない考えを嘲笑うかのように、世界には不可解な事件が多発していた。しかも、邪教集団、秘密結社、諜報機関が三つ巴になって、目的のためなら殺人をも辞さない構えで暗躍していた。
 内川は、女から受け取った原稿と記入ずみの更紙を、机の抽斗(ひきだし)に保管し施錠(せじょう)すると、署内の誰かに電話をかけた。
 「向坂さん、お宅までお送りします。玄関前に車を待機させてありますので、ご案内します」といいながら、内川は正面玄関を出て、階段の最上段で女が下りてゆくのを視送った。舗道に横づけした車の傍に、若い私服の刑事が二人、一人は運転席に座り、もう一人は車外で待機していた。
 女は身震いをすると、徐ろに階段を下りていった。だが、それから間もなく、女の全身が陽炎の如く揺らぎ始め、茫然自失している二人の刑事の眼前で消え去った。
 舗道に向かって階段を駆け下りてゆく途中、内川は狂気を含んだ笑い声が聴こえ、妖(なま)めいた死臭が辺りに立ち籠めたような気がして震え慄いた。そして突然、分厚い雷雲が天空に貼りつくと同時に、暗闇が地上を覆い悉くし、凄まじい稲妻が大気を引き裂いた。次いで、巨大な雹が地上に降り注いで地面を揺さぶり、天空と地上が逆転、終末を告げる弔鐘にも似た轟音が鳴り響いた。[完]
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