『掌編小説集』
第二章
2 .『洋館』
勤務先では孤立し、交際(つきあ)ってる木嵜雪江(きざき・ゆきえ)とは諍(いさか)いが絶えず、鬼瓦真司は己れの人生を初期化してしまいたい最悪の気分に陥っていた。悪態が思わず口を吐(つ)いて出る― ― 「十三日の金曜日… … それがどうした。何奴(どやつ)も此奴(こやつ)も失せやがれ」。鬼瓦は仕事を放擲(ほうてき)、愛車のスカG でドライヴすることにした。独りで何処へか出かけ、憂さ晴らしをするには絶好な日だ。
街中で駄菓子や飲料を調達、車に乗り込み、ダッシュボードからキオスクで買った、色褪せボロボロになった地図帖を引っ張りだした。郊外を抜け、山道を4,5 時間すっ跳ばして山林地帯に突入、C D プレーヤーにピンク・フロイドの『狂気』を装填し再生した。テューンアップしたエンジンの奏でる重低音と、スピーカーから流れ出る金属を引き裂くような女の悲鳴が、眠気をふっ斬ってくれた。
県境に差しかかり、鬼瓦はそろそろ疲労を覚えはじめた。車を道路脇に停めて、喫煙しながら缶珈琲を呑み、軽食代わりに入手したチョコバーを齧った。突然、嗤(わら)いが込み上げてきて吹き出しそうになり、口に含んだチョコバーを慌てて嚥み込んだ。
昔、吹き替え版で観た『コブラ』の台詞を憶(おも)い出したのだ。通称コブラなる刑事マリオンが相棒に向かって、「おめえはチョコバーばかり食ってるから、怒りっぽくていけねえ。自然食くえ」というのだ。
『コブラ』に登場する、少々ランボーな刑事は通称をコブラ、本名をマリオンという。マリオンなる名称は女性名、男性名の両方で通用するらしい。相棒が、保護・移送中の被害者、売れっ娘モデルにそっと耳打ちする― ― コブラにマリオンと呼んでみろと。
モデルにマリオンと呼ばれ、笑いながら「結構、気に入っている」と応えるコブラ。『コブラ』は映画ファンにとってはもちろん、主演のシルヴェスター・スタローンにとっても唯一の、ハードボイルド調にして、笑いを誘うソフトタッチの傑作だった。
森林内をメガデスの『ファイナル・カウントダウン』を聴きながらドライヴ、いつの間にか、昼なお暗い山中に闇が忍び寄っていた。そろそろ森林地帯を抜けなければ、曲がりくねった山道を走り通すのは難しくなる。何処かに抜け道があるはずだが… … そう思いながら運転して、もう何時間になるだろうか。しかし、街明かりは視つからず、鬼瓦は車を飛ばしながら不安を感じ始めた。
道行く人に尋ねようにも、通行人はおろか野生動物さえ通らず、焦りと恐怖から全身が震えた。視覚えのある標識を発見しホッとしたのも束の間、何時間か前に目撃した標識なのに気づき、恐怖は頂点に達する寸前になった。
いきなり浮遊感覚に襲われ、反射的にブレーキを踏み込んだ直後、壁にぶち当たる衝撃が襲ってきて車は急停止した。慌ててエンジンを停め、半ば朦朧としながら、懐中電灯を手にして後部ドアから車外に出た。愛車のスカG は古ぼけ崩れかかった幽霊屋敷然とした洋館の側面に、車体の半分近くをめり込ませていた。足許を懐中電灯で照らしながら、濡れた落ち葉を踏みしめ、建物を半周して正面に出た。
何気なく前方を照らし、闇夜に浮かぶ建物の門構えを眼にして、鬼瓦は恐怖のあまり窒息しそうになった。それは昔、悪童らと忍び込んだ憶えのある、何時の時代のものとも知れない洋館だった。気味の悪さは今も変わりはなかったが、鬼瓦は視えざる力に引き寄せられるように、屋敷内に入っていった。
1階の、水の滴(したた)る音がやけに反響するシャワー室を覗いてみた。天井を照らした瞬間、首筋の辺りを冷たい風が吹き抜け、冷水を浴びたように全身が寒気立(そうけだ)った。鬼瓦は蹌踉(よろ)めき、気が遠のきかけて壁に寄りかかった。壁に映った己れの影に、重なるように別人の影が浮き出し、ギョっとして跳び退いた。影は出入口に向かい、すり抜けるようにして外に消えた。
恐怖感は疾(と)っくに頂点を超えていた。鬼瓦は何も考えずにシャワー室を出て、ふらつく脚を引き摺りながら大広間に向かった。天窓から差し込む月明かりが、辺りを薄ぼんやりと照らし出していた。
悪い夢でも視ているような変な気分だった。鬼瓦は薄闇を透かし視るようにして周囲を視渡し、こときれた男の梁からぶら下る無慙な姿に絶叫した。
次の瞬間、何かに躓いてバランスを崩し、後ろ向きに倒れて後頭部を強打した。眩暈(めまい)と吐き気を催して遠退きかけた意識が蘇り、鬼瓦は床に手をついて立ち上がろうとした。ザラッとした感触の塵芥が掌(てのひら)に付着、と同時に妖めいた鉄さびの死臭が鼻を衝いた。傍に、女の首なし屍体が転がっていた。
鬼瓦は喚きながら外に跳び出し、数歩駆けて立ち止まるとソーっと振り向いた。蝙蝠に似た魔物が漆黒の闇から現れ、渋面に嘲りの笑みを浮かべると、双眸から不気味な黄金色の光を放って飛び去った。[完]
勤務先では孤立し、交際(つきあ)ってる木嵜雪江(きざき・ゆきえ)とは諍(いさか)いが絶えず、鬼瓦真司は己れの人生を初期化してしまいたい最悪の気分に陥っていた。悪態が思わず口を吐(つ)いて出る― ― 「十三日の金曜日… … それがどうした。何奴(どやつ)も此奴(こやつ)も失せやがれ」。鬼瓦は仕事を放擲(ほうてき)、愛車のスカG でドライヴすることにした。独りで何処へか出かけ、憂さ晴らしをするには絶好な日だ。
街中で駄菓子や飲料を調達、車に乗り込み、ダッシュボードからキオスクで買った、色褪せボロボロになった地図帖を引っ張りだした。郊外を抜け、山道を4,5 時間すっ跳ばして山林地帯に突入、C D プレーヤーにピンク・フロイドの『狂気』を装填し再生した。テューンアップしたエンジンの奏でる重低音と、スピーカーから流れ出る金属を引き裂くような女の悲鳴が、眠気をふっ斬ってくれた。
県境に差しかかり、鬼瓦はそろそろ疲労を覚えはじめた。車を道路脇に停めて、喫煙しながら缶珈琲を呑み、軽食代わりに入手したチョコバーを齧った。突然、嗤(わら)いが込み上げてきて吹き出しそうになり、口に含んだチョコバーを慌てて嚥み込んだ。
昔、吹き替え版で観た『コブラ』の台詞を憶(おも)い出したのだ。通称コブラなる刑事マリオンが相棒に向かって、「おめえはチョコバーばかり食ってるから、怒りっぽくていけねえ。自然食くえ」というのだ。
『コブラ』に登場する、少々ランボーな刑事は通称をコブラ、本名をマリオンという。マリオンなる名称は女性名、男性名の両方で通用するらしい。相棒が、保護・移送中の被害者、売れっ娘モデルにそっと耳打ちする― ― コブラにマリオンと呼んでみろと。
モデルにマリオンと呼ばれ、笑いながら「結構、気に入っている」と応えるコブラ。『コブラ』は映画ファンにとってはもちろん、主演のシルヴェスター・スタローンにとっても唯一の、ハードボイルド調にして、笑いを誘うソフトタッチの傑作だった。
森林内をメガデスの『ファイナル・カウントダウン』を聴きながらドライヴ、いつの間にか、昼なお暗い山中に闇が忍び寄っていた。そろそろ森林地帯を抜けなければ、曲がりくねった山道を走り通すのは難しくなる。何処かに抜け道があるはずだが… … そう思いながら運転して、もう何時間になるだろうか。しかし、街明かりは視つからず、鬼瓦は車を飛ばしながら不安を感じ始めた。
道行く人に尋ねようにも、通行人はおろか野生動物さえ通らず、焦りと恐怖から全身が震えた。視覚えのある標識を発見しホッとしたのも束の間、何時間か前に目撃した標識なのに気づき、恐怖は頂点に達する寸前になった。
いきなり浮遊感覚に襲われ、反射的にブレーキを踏み込んだ直後、壁にぶち当たる衝撃が襲ってきて車は急停止した。慌ててエンジンを停め、半ば朦朧としながら、懐中電灯を手にして後部ドアから車外に出た。愛車のスカG は古ぼけ崩れかかった幽霊屋敷然とした洋館の側面に、車体の半分近くをめり込ませていた。足許を懐中電灯で照らしながら、濡れた落ち葉を踏みしめ、建物を半周して正面に出た。
何気なく前方を照らし、闇夜に浮かぶ建物の門構えを眼にして、鬼瓦は恐怖のあまり窒息しそうになった。それは昔、悪童らと忍び込んだ憶えのある、何時の時代のものとも知れない洋館だった。気味の悪さは今も変わりはなかったが、鬼瓦は視えざる力に引き寄せられるように、屋敷内に入っていった。
1階の、水の滴(したた)る音がやけに反響するシャワー室を覗いてみた。天井を照らした瞬間、首筋の辺りを冷たい風が吹き抜け、冷水を浴びたように全身が寒気立(そうけだ)った。鬼瓦は蹌踉(よろ)めき、気が遠のきかけて壁に寄りかかった。壁に映った己れの影に、重なるように別人の影が浮き出し、ギョっとして跳び退いた。影は出入口に向かい、すり抜けるようにして外に消えた。
恐怖感は疾(と)っくに頂点を超えていた。鬼瓦は何も考えずにシャワー室を出て、ふらつく脚を引き摺りながら大広間に向かった。天窓から差し込む月明かりが、辺りを薄ぼんやりと照らし出していた。
悪い夢でも視ているような変な気分だった。鬼瓦は薄闇を透かし視るようにして周囲を視渡し、こときれた男の梁からぶら下る無慙な姿に絶叫した。
次の瞬間、何かに躓いてバランスを崩し、後ろ向きに倒れて後頭部を強打した。眩暈(めまい)と吐き気を催して遠退きかけた意識が蘇り、鬼瓦は床に手をついて立ち上がろうとした。ザラッとした感触の塵芥が掌(てのひら)に付着、と同時に妖めいた鉄さびの死臭が鼻を衝いた。傍に、女の首なし屍体が転がっていた。
鬼瓦は喚きながら外に跳び出し、数歩駆けて立ち止まるとソーっと振り向いた。蝙蝠に似た魔物が漆黒の闇から現れ、渋面に嘲りの笑みを浮かべると、双眸から不気味な黄金色の光を放って飛び去った。[完]