『掌編小説集』
第三章
3 .『悪夢』
猛暑つづきと寝不足がいささか堪(こた)えていた。経費節減最優先とあっては、隙間から吹き込んでくる風が、せいぜい凉しかったらと愚痴の一つも言いたくなる。先行き不安満載の会社だが、経営者の日下部に恩義があり、おいそれとは辞められない。自分ひとりの所為(せい)ではないとはいえ、他に手立てはなかったか、財務管理に失敗さえしなければ― ― そういう思いだけがつのる。株式市場からの資金調達なんぞ、まともな感覚でできるものではない。いっそのこと、相場師なるプロの投資家にでも任せるべきだったろう。
経理課に席を置く河東(かわひがし)はサーヴィス残業を早々に切り上げ、設計課の同僚3 人とネオン街に繰り出した。お互い三十ヅラさげながら、交際相手さえ視つけられない始末では、呑み屋で世の中を批判するくらいが関の山だ。嫁の来てがなければ、今のまま独身を通して朽ち果てるまでのことだろう。働きたくても働けない中年だっているんだし、仕事がありながら不平を言ったのでは罰があたる。
批判の矛先は、世の中の話題から勤務先での疑問に到るまで、酔いに任せて気紛れに往来した― ― 「C O ツーが温ダンカの原因なんれのは大嘘だっちゃ」、「ケツ煙者ば悪もろにして済むべーか」、「社のムノーな幹部らどもが業績悪化にコーケンしてるべ… … 有難てえこっらすな」。日頃の鬱憤を居酒屋で晴らすのは結構だが、舌が縺(もつ)れてしまっては折角の舌鋒も鈍(なまく)ら同然だ。
別席で怪気炎を上げている同業他社の酔っ払いを後目(しりめ)に、河東は割勘で支払いを済ませた。呑み屋を出て繁華街をふらつく中に、いつの間にか同僚らとはぐれ、ベンチで眠り込んでしまった。
河東は寒風の吹き荒ぶ断崖絶壁で、ロック・クライミングをしている夢を視た。容赦なく体熱を奪い、凍えさせる冷気の凄まじさにとつぜん目覚め、自宅の湯船に首まで冷水に浸かっているのに気づいて慄いた。酔いはおおかた醒めていたが、日頃の寝不足が祟ったか意識はまだ朦朧としていた。河東は身体から碌に水気を拭き取りもせず、ベッドに倒れこむとたちまち鼾をかきはじめた。
目覚まし時計のたてるけたたましい音に跳び起き、時刻を確かめた河東は電車に乗らなければと思いながら、宿酔(ふつかよい)の頭を抱えてふたたび寝入ってしまった。親父とお袋の言い争う声が、がらくた同然の古びた受像機から雑音と共に聴こえてきた。疾(と)っくに他界しているのだし、両親のはずはないのだが― ― 。
それは、隣家に住む老夫婦の怒鳴り合う声だった。人間は歳をとるにしたがって知識が増え、教養が高まって当然なのだが、現実にはまったく違った方向に突っ走る。
寝過ごした河東は駅に駆け込み、慌てるあまり、反対車線のプラットフォームに出てしまった。踵を返して急ぐが、連絡通路が視つからない。振り向いた河東の面前に、眼に視えない壁が立ちはだかった。次の瞬間、何者かが鉤爪を伸したでかい手で、河東の袖を鷲掴みにすると強く引っ張った。アッという間もなく壁を突き抜け、奇妙な構造の回廊に出ていた。河東は不吉な予感を覚えながら、遠ざかってゆく何者かの足音を追っかけた。
気がつけば、大量の乗降客を掻き分け、狭い階段を上へと急いでいた。最上段に達し、通路を反対側に向かって走り、異臭の立ち籠めた、がら空きの電車に跳び乗った。座席から何気なく窓外を眺め、いつも視慣れた風景とは違うのに気づいた。大気の色は紫色に近く、道行く人の気配すらない。
車窓から視えるのは、捻(ねじ)くれた樹木や毒々しい色の花を咲かせた雑草ばかり
― ―乗り場を間違えたのだ。次の停車駅で別方向に向かう電車に乗ると、待ち構えていたように直ぐさま出発した。
通勤電車というより、ばらばら屍体を満載し、地獄に向かう霊柩車両を想わせた。乗客の顔色は一様に青褪め、ホラー映画に登場する吸血鬼にそっくりだった。それが事実なら、太陽の放射光の下では、たちまち燃え上がり灰燼に帰するはずだが― ― 。
大気の色は紫色の異様な度合いをますます深め、乗客は恐怖のあまりに凍りつくか、仮死状態のまま微動だにしなかった。
蝙蝠によく似た巨大な鳥が、電車の進行とは逆方向に、群れをなして飛んでいるのが視えた。悪夢に登場する、吸血蝙蝠か邪悪な霊さながら、両眼から黄金色の不気味な光を発し、牙を剥き出して視界から消えた。黄金色の光が河東の眼を刺激し、束の間だったが、死の世界を想わせる光景が眼前に現れた。頭を震って幻覚を追い払い、焦点の定まらぬ眼で窓外を視た河東は、恐怖のあまり絶叫した。電車は天空にまで届く髑髏の山を、掻き分け轢き潰しながら疾駆していた。
数日後、地方紙三面に河東の凍死を伝える記事が載った。熱帯夜の続くこの八月に、冷凍庫にでも入っていたようにコチコチであったという― ― 死に顔は安らかだったとか。関係者は、死因について一様に沈黙したままだ。[完]
猛暑つづきと寝不足がいささか堪(こた)えていた。経費節減最優先とあっては、隙間から吹き込んでくる風が、せいぜい凉しかったらと愚痴の一つも言いたくなる。先行き不安満載の会社だが、経営者の日下部に恩義があり、おいそれとは辞められない。自分ひとりの所為(せい)ではないとはいえ、他に手立てはなかったか、財務管理に失敗さえしなければ― ― そういう思いだけがつのる。株式市場からの資金調達なんぞ、まともな感覚でできるものではない。いっそのこと、相場師なるプロの投資家にでも任せるべきだったろう。
経理課に席を置く河東(かわひがし)はサーヴィス残業を早々に切り上げ、設計課の同僚3 人とネオン街に繰り出した。お互い三十ヅラさげながら、交際相手さえ視つけられない始末では、呑み屋で世の中を批判するくらいが関の山だ。嫁の来てがなければ、今のまま独身を通して朽ち果てるまでのことだろう。働きたくても働けない中年だっているんだし、仕事がありながら不平を言ったのでは罰があたる。
批判の矛先は、世の中の話題から勤務先での疑問に到るまで、酔いに任せて気紛れに往来した― ― 「C O ツーが温ダンカの原因なんれのは大嘘だっちゃ」、「ケツ煙者ば悪もろにして済むべーか」、「社のムノーな幹部らどもが業績悪化にコーケンしてるべ… … 有難てえこっらすな」。日頃の鬱憤を居酒屋で晴らすのは結構だが、舌が縺(もつ)れてしまっては折角の舌鋒も鈍(なまく)ら同然だ。
別席で怪気炎を上げている同業他社の酔っ払いを後目(しりめ)に、河東は割勘で支払いを済ませた。呑み屋を出て繁華街をふらつく中に、いつの間にか同僚らとはぐれ、ベンチで眠り込んでしまった。
河東は寒風の吹き荒ぶ断崖絶壁で、ロック・クライミングをしている夢を視た。容赦なく体熱を奪い、凍えさせる冷気の凄まじさにとつぜん目覚め、自宅の湯船に首まで冷水に浸かっているのに気づいて慄いた。酔いはおおかた醒めていたが、日頃の寝不足が祟ったか意識はまだ朦朧としていた。河東は身体から碌に水気を拭き取りもせず、ベッドに倒れこむとたちまち鼾をかきはじめた。
目覚まし時計のたてるけたたましい音に跳び起き、時刻を確かめた河東は電車に乗らなければと思いながら、宿酔(ふつかよい)の頭を抱えてふたたび寝入ってしまった。親父とお袋の言い争う声が、がらくた同然の古びた受像機から雑音と共に聴こえてきた。疾(と)っくに他界しているのだし、両親のはずはないのだが― ― 。
それは、隣家に住む老夫婦の怒鳴り合う声だった。人間は歳をとるにしたがって知識が増え、教養が高まって当然なのだが、現実にはまったく違った方向に突っ走る。
寝過ごした河東は駅に駆け込み、慌てるあまり、反対車線のプラットフォームに出てしまった。踵を返して急ぐが、連絡通路が視つからない。振り向いた河東の面前に、眼に視えない壁が立ちはだかった。次の瞬間、何者かが鉤爪を伸したでかい手で、河東の袖を鷲掴みにすると強く引っ張った。アッという間もなく壁を突き抜け、奇妙な構造の回廊に出ていた。河東は不吉な予感を覚えながら、遠ざかってゆく何者かの足音を追っかけた。
気がつけば、大量の乗降客を掻き分け、狭い階段を上へと急いでいた。最上段に達し、通路を反対側に向かって走り、異臭の立ち籠めた、がら空きの電車に跳び乗った。座席から何気なく窓外を眺め、いつも視慣れた風景とは違うのに気づいた。大気の色は紫色に近く、道行く人の気配すらない。
車窓から視えるのは、捻(ねじ)くれた樹木や毒々しい色の花を咲かせた雑草ばかり
― ―乗り場を間違えたのだ。次の停車駅で別方向に向かう電車に乗ると、待ち構えていたように直ぐさま出発した。
通勤電車というより、ばらばら屍体を満載し、地獄に向かう霊柩車両を想わせた。乗客の顔色は一様に青褪め、ホラー映画に登場する吸血鬼にそっくりだった。それが事実なら、太陽の放射光の下では、たちまち燃え上がり灰燼に帰するはずだが― ― 。
大気の色は紫色の異様な度合いをますます深め、乗客は恐怖のあまりに凍りつくか、仮死状態のまま微動だにしなかった。
蝙蝠によく似た巨大な鳥が、電車の進行とは逆方向に、群れをなして飛んでいるのが視えた。悪夢に登場する、吸血蝙蝠か邪悪な霊さながら、両眼から黄金色の不気味な光を発し、牙を剥き出して視界から消えた。黄金色の光が河東の眼を刺激し、束の間だったが、死の世界を想わせる光景が眼前に現れた。頭を震って幻覚を追い払い、焦点の定まらぬ眼で窓外を視た河東は、恐怖のあまり絶叫した。電車は天空にまで届く髑髏の山を、掻き分け轢き潰しながら疾駆していた。
数日後、地方紙三面に河東の凍死を伝える記事が載った。熱帯夜の続くこの八月に、冷凍庫にでも入っていたようにコチコチであったという― ― 死に顔は安らかだったとか。関係者は、死因について一様に沈黙したままだ。[完]