『掌編小説集』
第四章
4 .『時空』
密林に迷い込んでから、半日間、休みなしに歩き続けていた。久我山は、喉の渇きと眩暈(めまい)のあまりの激しさに昏倒してしまった。それから数時間後、両脚に凍えたような痛覚を覚え意識を回復した。何時の間にか陽は天球の真上にさしかかり、波が大小無数の氷片と共に、砂浜に打ち寄せていた。
精神錯乱を起こしていたのだろうか、岩山の天辺めざして登攀していたのまでは記憶に残っていた。中腹に辿り着き一息入れようとしていて、頭上から時報が聴こえてくるのに気づき、その出処を確かめるべく起ち上がった覚えが― ― 。
疲れてはいたが好奇心には勝てず、休憩せずに登攀を続行した― ― ような気がする。疲労が頂点に達し、脚が悲鳴を上げ始めていた。折よく、岩石を刳(く)り抜いた住居と思しい、洞窟の近くに辿り着いた。一階部分はおおかた砂塵に埋もれ、背を屈めた程度では入っては行けなかった。シャベルで砂を掻き出し、内部へと這い進んで起ち上がった。
コチコチと規則正しく、時を刻む音が足下から聴こえてきた。久我山は砂を取り除け、ほとんど原型を留めていない、掌大の毀れた器械を掘り起こした。時を刻む音を追いかけるように、別の異質な音が忍び寄ってきた。久我山は名状し難い違和感に寒気立つのを覚え、逃げるように洞窟から這い出した。
岩山の登攀を再開して間もなく、厚い霧が垂れ込め、気温が上昇しているのに気づいた。頭が何かに打つかり金属音を立てたその音に、久我山は驚いて跳び退いたのを憶い出した。次第に霧が晴れ、巨大なU F O が音もなく遠ざかって行くのを呆然として視送ったような気がした。
太陽が激烈な放射線を容赦なく浴びせ、それに呼応して熱風が吹き荒れた。久我山は堪(こら)え切れずに、その場にへたり込んでしまった。その時リュックサックの中に、入れた憶えのないあの奇妙な形状の、時計に似た器械が入っているのに気づいた。
こんな時に、ラム酒のオンザロックでも呑めたら― ― そう思った直後、リュックを左脇に抱え、右手にオンザロックのグラスを持って、洒落た酒場のスツールに腰掛けていた。スタンレー・タレンタインの奏でるテナー・サクスフォンのファンキーなジャズが、ひっそりと静まり返った店内に鳴り響いていた。
しかし、スツールに座る久我山を除き、客はおろかバーテンダーすらいなかった。気配はするのだから、久我山に視えないだけで、実際には存在しているのかもしれない。此処は一体、ロンドン、ニューヨークそれともトーキョーなのか、あるいは三途の川の向こうに在るとかいう異形の世界なのか。
怖気(おぞけ)を慄った久我山は、リュックの中にある奇妙な形状の、時を刻む器械に手を触れながら念じた。両親、兄弟、姉妹、友人、別れてしまった元女房― ― 視知った人なら誰でも好い、とにかく誰かに会いたい。これまで十分に、孤独に苦しんできたのだし、なにかと束縛の多い普通の生活に戻らねば― ― 。
何時の間にか、久我山はリュックを担ぎ、空のグラスを手にして高層ビルディングの林立する通りを歩いていた。一見したところ、何処にでも視かける建物ばかりだが、奇妙なことに昼間にも拘らず通行人がまったくいなかった。それとも、久我山に視えていないだけか― ― 。
天空からは太陽が強烈な放射光を浴びせ、昼間の外出が如何に危険かを明示していた。ところがそれから数分後、久我山は複数の通行人とすれ違う気配を感じた。中には、すれ違いざま声をかけてくる者がいたような気がした。しかもそれだけではなく、話し声や叫び声にくわえ、誰かと打つかる衝撃までが肩や手足に伝わってきた。空気圧か振動が、大気を揺るがしていた― ― 久我山は己れの精神状態を疑いながら、そういった感覚に囚われ身じろぎもできなかった。ひょっとして、狂っているのに自分で気づいていないのか? 認めたくないが、もしそうだとすると、眼前に次から次へと現れ変転する不可解な現象は、自身の精神
状態の顕現なのかもしれない。
狂った精神が異常な物質世界を構築し、何時の間にかその世界が現実となり、逆に狂った精神を支配し破滅に向かって内部崩壊を起こし始めるのだ。久我山は幼くして強度の狂気を発症し、それに気づいた両親をいたく悲しませた。外部に知れるのを極度に畏れた両親は、久我山を地下の座敷牢に閉じ込め、無学にして善良な村人から隠した。人里離れた地に建つ一軒家では、滅多に訪れる者はいない。両親は狂った息子を隠し遂せ、座敷牢に閉じ込めたまま死に絶えた。
両親が健在な中は極く普通の食事をしていた久我山だったが、両親の死後、座敷牢に迷い込む昆虫や小動物を捕らえて飢えを忍ぶようになった。村人はこの一軒家の周辺で怪奇現象が頻発するのを噂しあい、気味悪がって近づかなかった。ある日、駐在が一軒家を訪れ、家屋内に成人二体の白骨屍体を発見した。久我山の存在や行方を知る者は誰もいない。[完]
密林に迷い込んでから、半日間、休みなしに歩き続けていた。久我山は、喉の渇きと眩暈(めまい)のあまりの激しさに昏倒してしまった。それから数時間後、両脚に凍えたような痛覚を覚え意識を回復した。何時の間にか陽は天球の真上にさしかかり、波が大小無数の氷片と共に、砂浜に打ち寄せていた。
精神錯乱を起こしていたのだろうか、岩山の天辺めざして登攀していたのまでは記憶に残っていた。中腹に辿り着き一息入れようとしていて、頭上から時報が聴こえてくるのに気づき、その出処を確かめるべく起ち上がった覚えが― ― 。
疲れてはいたが好奇心には勝てず、休憩せずに登攀を続行した― ― ような気がする。疲労が頂点に達し、脚が悲鳴を上げ始めていた。折よく、岩石を刳(く)り抜いた住居と思しい、洞窟の近くに辿り着いた。一階部分はおおかた砂塵に埋もれ、背を屈めた程度では入っては行けなかった。シャベルで砂を掻き出し、内部へと這い進んで起ち上がった。
コチコチと規則正しく、時を刻む音が足下から聴こえてきた。久我山は砂を取り除け、ほとんど原型を留めていない、掌大の毀れた器械を掘り起こした。時を刻む音を追いかけるように、別の異質な音が忍び寄ってきた。久我山は名状し難い違和感に寒気立つのを覚え、逃げるように洞窟から這い出した。
岩山の登攀を再開して間もなく、厚い霧が垂れ込め、気温が上昇しているのに気づいた。頭が何かに打つかり金属音を立てたその音に、久我山は驚いて跳び退いたのを憶い出した。次第に霧が晴れ、巨大なU F O が音もなく遠ざかって行くのを呆然として視送ったような気がした。
太陽が激烈な放射線を容赦なく浴びせ、それに呼応して熱風が吹き荒れた。久我山は堪(こら)え切れずに、その場にへたり込んでしまった。その時リュックサックの中に、入れた憶えのないあの奇妙な形状の、時計に似た器械が入っているのに気づいた。
こんな時に、ラム酒のオンザロックでも呑めたら― ― そう思った直後、リュックを左脇に抱え、右手にオンザロックのグラスを持って、洒落た酒場のスツールに腰掛けていた。スタンレー・タレンタインの奏でるテナー・サクスフォンのファンキーなジャズが、ひっそりと静まり返った店内に鳴り響いていた。
しかし、スツールに座る久我山を除き、客はおろかバーテンダーすらいなかった。気配はするのだから、久我山に視えないだけで、実際には存在しているのかもしれない。此処は一体、ロンドン、ニューヨークそれともトーキョーなのか、あるいは三途の川の向こうに在るとかいう異形の世界なのか。
怖気(おぞけ)を慄った久我山は、リュックの中にある奇妙な形状の、時を刻む器械に手を触れながら念じた。両親、兄弟、姉妹、友人、別れてしまった元女房― ― 視知った人なら誰でも好い、とにかく誰かに会いたい。これまで十分に、孤独に苦しんできたのだし、なにかと束縛の多い普通の生活に戻らねば― ― 。
何時の間にか、久我山はリュックを担ぎ、空のグラスを手にして高層ビルディングの林立する通りを歩いていた。一見したところ、何処にでも視かける建物ばかりだが、奇妙なことに昼間にも拘らず通行人がまったくいなかった。それとも、久我山に視えていないだけか― ― 。
天空からは太陽が強烈な放射光を浴びせ、昼間の外出が如何に危険かを明示していた。ところがそれから数分後、久我山は複数の通行人とすれ違う気配を感じた。中には、すれ違いざま声をかけてくる者がいたような気がした。しかもそれだけではなく、話し声や叫び声にくわえ、誰かと打つかる衝撃までが肩や手足に伝わってきた。空気圧か振動が、大気を揺るがしていた― ― 久我山は己れの精神状態を疑いながら、そういった感覚に囚われ身じろぎもできなかった。ひょっとして、狂っているのに自分で気づいていないのか? 認めたくないが、もしそうだとすると、眼前に次から次へと現れ変転する不可解な現象は、自身の精神
状態の顕現なのかもしれない。
狂った精神が異常な物質世界を構築し、何時の間にかその世界が現実となり、逆に狂った精神を支配し破滅に向かって内部崩壊を起こし始めるのだ。久我山は幼くして強度の狂気を発症し、それに気づいた両親をいたく悲しませた。外部に知れるのを極度に畏れた両親は、久我山を地下の座敷牢に閉じ込め、無学にして善良な村人から隠した。人里離れた地に建つ一軒家では、滅多に訪れる者はいない。両親は狂った息子を隠し遂せ、座敷牢に閉じ込めたまま死に絶えた。
両親が健在な中は極く普通の食事をしていた久我山だったが、両親の死後、座敷牢に迷い込む昆虫や小動物を捕らえて飢えを忍ぶようになった。村人はこの一軒家の周辺で怪奇現象が頻発するのを噂しあい、気味悪がって近づかなかった。ある日、駐在が一軒家を訪れ、家屋内に成人二体の白骨屍体を発見した。久我山の存在や行方を知る者は誰もいない。[完]