『掌編小説集』
第五章
5 .『夜警』
半ば意識朦朧の状態で、深夜映画を視るともなく視てしまった。元来、胆力に乏しい遠山は、夜更けに化け物の出てくる映画は鑑賞しないことにしていた。偶々、したたかに酔ってしまい、受像機を消し忘れたのだった。途中からなので何という映画か、結末がどうなったのかも分からなかった。一気に酔いが醒めてしまうほどの、怖さだったのだけは憶えていた。
深夜、火災事故に遭ったデパートを、元刑事の警備員が独りで視廻る― ― といった内容だった。そのデパートには、床から天井まで届く巨大な鏡があった。鏡は異形の世界を映し出し、近づく者に災いを齎すだけではなく、警備員の家族にまで触手を延ばし始める。この元刑事には、勤務上の一寸した嫌疑が降りかかっていた。それが因(もと)で停職を喰らい、同僚が復職できるよう工作中だった。
居酒屋で呑んだ焼酎の酒精分がまだ血中に残り、酔いが醒めるには時間がかかりそうだった。さして強くもない呑み介の遠山は、前夜、居酒屋で知人の菅井と、お互いの再就職をささやかながら祝った。菅井は不動産会社の営業職に、遠山は警備会社の深夜専従警備員に決まった。前職とは異なる職業に就くのだから、お互い不安がなくもなかった。だが、時勢が時勢だけに、決まっただけでも幸運だったといえる。官制職業紹介所の常連となった二人は、同郷の出身と分かった後、昔からの親友同然になっていた。何処かで誰かと血の繋がっていそうな、そんな地方の忘れ去られた僻遠の地の生まれだったのだ。
遠山は、消し忘れた受像機から出る、異様に明るく妖気ただよう光に反応し目を覚ました。喉に焼けつくような渇きを覚え、起き上がって暗闇の中を洗面所に向かった。その途上、柱時計の午前2 時を告げる不気味な時報にギクっとした。廊下の突き当りにある洗面所に辿り着き、洗面台に置いたグラスに手を延ばそうとして、一瞬だが絶叫しかけた。壁からニューっと、手が出てきたように視えたのだ。自分の手が鏡に映っていたにすぎなかった。
深夜映画の怖い場面が脳裏に焼きつき、元来が臆病な遠山は歯をガチガチいわせ、身体を小刻みに慄わせた。たかが映画とはいえ、想像が勝手に映像から恐怖を抽き出し増幅させる。子供っぽいといってしまえばそれまでのことだが、背後に何かが忍び寄ってくる― ― そう想っただけで慄えあがってしまうのだった。
消した受像機やモニターの真っ暗な画面に、己れの姿が映っただけでも、寒気だつのだから病的なのかもしれない。誰もが何らかの疾患を抱えているなら、少しは慰めの足しにはなるかもしれないのだが― ― 。選りにも選って、深夜専従なんぞに決まるとは、どういった運命の巡り合わせなのか。少しは鈍感になれよという、先祖からの戒めの意味でもあるのだろうか。逃げてばかりでは、どうせ碌な奴にはならない。度胸試しを兼ね、深夜勤務に就くのも悪くはなかろう。他に誰もいない深夜の高層ビルディングの中では、救けを期待する方がどうかしている。そういえば、外国のS F 映画の宣伝に、「誰にも、何処へも叫びは届かない」とかいう、絶体絶命を想わせる苛烈な一文があったな― ― 。
勤務の初日、早目に出勤した遠山は、眼前に威圧するように聳える、薄汚れた三十三階建てのビルディングに眼を瞠(みは)った― ― 悪霊(あくりょう)の巣窟を視る想いだった。
遠山は一階の詰所に忘れてきた懐中電灯を気にしながら、何かが潜んでいそうな最上階の暗く長い通路を急いだ。闇が前後左右から迫り、遠山をがんじ搦めにしようとしていた。その場から悲鳴をあげて、逃げ出したい衝動を抑えつつ大股で突き進んだ。
初めは点のように小さかった影が視る間に大きくなっていった。遠山は自分が、どれほど急いで歩いているかに気づいていなかった。紅く反射する光と黒っぽい影が前方に、チラついているのが視えた。灯りと影が視る間に大きくなり、アッと叫ぶ間もなく壁にぶつかった。常夜灯の紅い灯りと己れの黒い姿が、防火扉に映っていたにすぎなかったのだ。
一週間後、菅井と居酒屋で落ち合った。
「どうだい、深夜勤務の印象は」とジョッキ片手に菅井。
「ふむ、精神の鍛錬ってことなら、これほど適切な仕事はないだろな」枝豆をつまみながら応える遠山。
「営業だって、結構、度胸というかハッタリというかそういった強さは要るんではないか」こもり気味の声で訊く遠山に、「ああ、事務職しか経験のなかった俺が、まさか営業をやろうとは想像もしていなかった。初日には、上手く応対できずに膝が震えたぞ」と応えながら笑う菅井。
「怖いと思うことはないか」そう唐突に訊く菅井の表情に、遠山は一瞬だが恐怖の影が過(よぎ)ったように想った。
「怖くないといえば嘘になるが」そういうと、遠山は遠くを視るような眼つきをして笑った。
「うむそうか、お互い乗りかかった船だ。何処まで行けるか確かめようじゃないか」という菅井に、遠山は頷くとジョッキを持ち上げ、辛口ビールを呷(あお)った。[完]
半ば意識朦朧の状態で、深夜映画を視るともなく視てしまった。元来、胆力に乏しい遠山は、夜更けに化け物の出てくる映画は鑑賞しないことにしていた。偶々、したたかに酔ってしまい、受像機を消し忘れたのだった。途中からなので何という映画か、結末がどうなったのかも分からなかった。一気に酔いが醒めてしまうほどの、怖さだったのだけは憶えていた。
深夜、火災事故に遭ったデパートを、元刑事の警備員が独りで視廻る― ― といった内容だった。そのデパートには、床から天井まで届く巨大な鏡があった。鏡は異形の世界を映し出し、近づく者に災いを齎すだけではなく、警備員の家族にまで触手を延ばし始める。この元刑事には、勤務上の一寸した嫌疑が降りかかっていた。それが因(もと)で停職を喰らい、同僚が復職できるよう工作中だった。
居酒屋で呑んだ焼酎の酒精分がまだ血中に残り、酔いが醒めるには時間がかかりそうだった。さして強くもない呑み介の遠山は、前夜、居酒屋で知人の菅井と、お互いの再就職をささやかながら祝った。菅井は不動産会社の営業職に、遠山は警備会社の深夜専従警備員に決まった。前職とは異なる職業に就くのだから、お互い不安がなくもなかった。だが、時勢が時勢だけに、決まっただけでも幸運だったといえる。官制職業紹介所の常連となった二人は、同郷の出身と分かった後、昔からの親友同然になっていた。何処かで誰かと血の繋がっていそうな、そんな地方の忘れ去られた僻遠の地の生まれだったのだ。
遠山は、消し忘れた受像機から出る、異様に明るく妖気ただよう光に反応し目を覚ました。喉に焼けつくような渇きを覚え、起き上がって暗闇の中を洗面所に向かった。その途上、柱時計の午前2 時を告げる不気味な時報にギクっとした。廊下の突き当りにある洗面所に辿り着き、洗面台に置いたグラスに手を延ばそうとして、一瞬だが絶叫しかけた。壁からニューっと、手が出てきたように視えたのだ。自分の手が鏡に映っていたにすぎなかった。
深夜映画の怖い場面が脳裏に焼きつき、元来が臆病な遠山は歯をガチガチいわせ、身体を小刻みに慄わせた。たかが映画とはいえ、想像が勝手に映像から恐怖を抽き出し増幅させる。子供っぽいといってしまえばそれまでのことだが、背後に何かが忍び寄ってくる― ― そう想っただけで慄えあがってしまうのだった。
消した受像機やモニターの真っ暗な画面に、己れの姿が映っただけでも、寒気だつのだから病的なのかもしれない。誰もが何らかの疾患を抱えているなら、少しは慰めの足しにはなるかもしれないのだが― ― 。選りにも選って、深夜専従なんぞに決まるとは、どういった運命の巡り合わせなのか。少しは鈍感になれよという、先祖からの戒めの意味でもあるのだろうか。逃げてばかりでは、どうせ碌な奴にはならない。度胸試しを兼ね、深夜勤務に就くのも悪くはなかろう。他に誰もいない深夜の高層ビルディングの中では、救けを期待する方がどうかしている。そういえば、外国のS F 映画の宣伝に、「誰にも、何処へも叫びは届かない」とかいう、絶体絶命を想わせる苛烈な一文があったな― ― 。
勤務の初日、早目に出勤した遠山は、眼前に威圧するように聳える、薄汚れた三十三階建てのビルディングに眼を瞠(みは)った― ― 悪霊(あくりょう)の巣窟を視る想いだった。
遠山は一階の詰所に忘れてきた懐中電灯を気にしながら、何かが潜んでいそうな最上階の暗く長い通路を急いだ。闇が前後左右から迫り、遠山をがんじ搦めにしようとしていた。その場から悲鳴をあげて、逃げ出したい衝動を抑えつつ大股で突き進んだ。
初めは点のように小さかった影が視る間に大きくなっていった。遠山は自分が、どれほど急いで歩いているかに気づいていなかった。紅く反射する光と黒っぽい影が前方に、チラついているのが視えた。灯りと影が視る間に大きくなり、アッと叫ぶ間もなく壁にぶつかった。常夜灯の紅い灯りと己れの黒い姿が、防火扉に映っていたにすぎなかったのだ。
一週間後、菅井と居酒屋で落ち合った。
「どうだい、深夜勤務の印象は」とジョッキ片手に菅井。
「ふむ、精神の鍛錬ってことなら、これほど適切な仕事はないだろな」枝豆をつまみながら応える遠山。
「営業だって、結構、度胸というかハッタリというかそういった強さは要るんではないか」こもり気味の声で訊く遠山に、「ああ、事務職しか経験のなかった俺が、まさか営業をやろうとは想像もしていなかった。初日には、上手く応対できずに膝が震えたぞ」と応えながら笑う菅井。
「怖いと思うことはないか」そう唐突に訊く菅井の表情に、遠山は一瞬だが恐怖の影が過(よぎ)ったように想った。
「怖くないといえば嘘になるが」そういうと、遠山は遠くを視るような眼つきをして笑った。
「うむそうか、お互い乗りかかった船だ。何処まで行けるか確かめようじゃないか」という菅井に、遠山は頷くとジョッキを持ち上げ、辛口ビールを呷(あお)った。[完]