『掌編小説集』
第七章
7 .『幻覚』
 カフェインの過剰摂取は健康を損ね、挙句に幻覚を視る恐れがあるとか。仄聞(そくぶん)だが、睡眠不足や不眠症はカフェインに劣らず精神障害を起こすともいう。そういった危機的状況に陥るのは、却って几帳面な人間に多いのは論を俟つまでもないだろう。
 上嶌左右吉(うえしま・そうきち)は親の付けてくれた大時代的にして畏れ多い名前に辟易しながらも、名に恥じない人間になるべく、日頃の鍛錬を怠らない。眠れない夜が続き、思考力が鈍ってはいたが早朝からキーボードに向かい、名文を叩き出すべく苦闘していた
― ― 視果てぬ夢ではあったが。
 夜中の2時に就寝し、明け方5時に起床するのが、何時頃からか上嶌の日課になっていた。日がな一日、モニターの画面を睨み、一行も書けずに終わる日々が続いた。熱帯夜の襲いくる真夏には、極寒の真冬によりも不眠症に苦しんだ。猛暑期の熱風はまるで、精神的鍛錬を嘲笑うかのように上嶌に纏(まと)わりついた。
 夕方、何人かの同好の士と、会合を名目とした呑み会を催すことになっていた。会合の時刻までには余裕があったので、上嶌は時間潰しと涼む目的で海岸へと向かった。
 日が陰ってきたとはいえ、西日の差す午後の日差しは侮れない。ヘルメットを被り、マウンテンバイクのペダルを踏みながら、日陰の多い裏通りを走った。海岸に近づくにしたがって、涼風が塩の香りを伴って吹いてきた。上嶌は車道から砂浜に降りて行って、日没間際の水平線に沈んでゆく真っ赤な太陽を眺めた。
 その時、なんの前触れもなく打ち寄せる波と共に、一陣の凍えるような冷気が沖合から浜辺に向かって吹いてきた。その風に乗って寒気立(そうけだ)つような、得体の知れない半透明な何かが上嶌を襲い、一陣の冷風と共に後方に去っていった。
 風の中に潜むそれが上嶌に纏わりついていた時間は、一瞬あるいは数瞬だったかも知れない。太陽が水平線の彼方に没し、呆然と佇む上嶌の周辺を闇が覆い始めた。上嶌は憶い出したようにマウンテンバイクに跨がり、待ち合わせのカフェへと急いだ。
 カフェの軒下にバイクを立てかけ、ヘルメットをバイクに固定して、店内に入っていった。喫煙しながら談笑していた四人が、一斉に上嶌の方を振り向いた。四人の戸惑ったような視線や強張った表情に、上嶌はなにか尋常でないものを察知し驚愕した。
 「どうした、顔が真っ青だぞ」
 5 人の中で最年長の佐和田が、上嶌をしげしげと眺めながらそう言った。上嶌の表情が余りにも異常だったか、上嶌を注視した佐和田は、吸い殻が膝の上に落ちたのに気づいていなかった。
 「う、うん」
 相手の只ならぬ表情から、上嶌は自分の顔色を想像して怖気を慄った。
 「身体が、小刻みに慄えてるじゃないか」と言いながら、自身が慄えているの気づかないのは、佐和田の真向かいの席に座っていた唐沢だった。
 「時間的に余裕があったし、あんまり暑いんで、夕涼みがてら海辺に立ち寄ったんだ」
 そう応えながら上嶌自身、慄えが止まらない。
 「で? 」
 隣り合わせに座っていた大橋、越川が、漂う煙草の煙の内側から、上嶌を透かし視るようにして同時に訊いた。
 「ああ、沖の方から陸(おか)に向かって冷気が押し寄せてきたんだ」
 上嶌は気楽を装ってはいたものの、四人の反応に寒気立つ思いだった。
 「そ、それで」
 四人が一斉に上嶌の方を向いて、怖いもの視たさの興味と視るのを躊躇(ためら)う恐怖の混在した表情で先を促した。
「目鼻のない女が海から上がってきて、近寄ってきて、吹き抜けるかどうかして… … 後方に失せた」
 そう応えながら、上嶌は後ろに気配を感じ、確かめようとしたが身じろぎできなかった。上半身を強引に捩じ向けると、そこには虚無の空間が広がっているばかりだった。
 上嶌は金縛り状態から逃れようと、無駄な抵抗と識りながら、悪夢の去るのをひたすら念じ続けた。カフェにいた四人は何時の間にか帰ってしまい、カフェそのものも眼前から消え去っていた。もう一度ふり向いた先には、買ったばかりのモニターが机上にデンと構えるアパートの一室があった。
 そこは上嶌の住む借家の書斎だった。モニターを前にして、椅子に腰掛けたままうたた寝をしてしまったか。モニターには、上嶌自身の椅子に腰掛けた姿がぼんやりと反射していた。
 確かめるまでもなく、モニターはコンピュータ本体同様に電源を切ってあり、コンピュータからの映像は映っていない。モニターの正面を向いた上嶌の顔が、本人の意志に反して真横を向いていた。本人は正面を向いたままなのに、モニター上の反射映像はなぜか横向きになっていた。
 しかし、よくよく注視したところ、本人の正面顔に重なるように別人の横顔が映っていたのだ。その顔が、驚いて視ている上嶌に向かってニーっと笑った。絶叫しそうになりながら、そのとき上嶌は気づいた。横顔を視せて笑っているのは、海から上がってきたあの目鼻のなかった女だと― ― 。[完]
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