『掌編小説集』
第九章
9 .『鬼瓦』
自社ビルディングの屋上で、二人の社員が喫煙しながら話し込んでいた。新興企業の中で最も業績好調な電気メーカー「雷おこし」は、奇抜な社名が幸いし、知名度も業績も鰻のぼりだった。初任給では大メーカーに少々後れを取ってはいたものの、製品の市場占有率では国内の同業他社を圧倒していた。現状を今後も堅持できるなら、同社は緒外国の大企業をも追い抜いてしまうにちがいない。
「業績好調なのはいいとして、社屋内の何処にも喫煙室がないなんて、社長がいくら煙草嫌いだとしても愛煙家を冷遇してないか」
猛烈な勢いで鼻からモクモクと、白い煙を噴き出しながら先輩格の宮元一石(みやもと・いっこく)が渋面を作って相手に話しかけた。
「以前、社長は愛煙家というより、チエーン・スモーカーだったそうですね。いったい、何があったのでしょうか、喫煙者を社屋内から締め出すなんて」
新米社員の古河禄郎は、ちょいと気取った恰好で煙草を咥え、西部劇の保安官口調で応えた。
「それなんだよ、屋上でこそこそ喫(す)ってる此方の身にもなってくれってことだな。嘗(かつ)ては、愛煙家だったのなら、煙草なしでは生きられない我々の、苦境を少しは考慮して欲しいもんだ」
宮元は古河をからかうように、時代劇の岡っ引き風な声色で返した。
二人が冗談で盛り上がっている処へ、背高ノッポの菱岡桜子(ひしおか・さくらこ)課長が足音もなく近づき、左右の掌で二人の肩に軽く触れた。驚いた二人は仰け反(のけぞ)るように視上げ、苦笑いをしながら会釈をした。
「あなた方、こんな処で煙草を喫っているのを社長に視つかったら、夏の賞与にひびくわよ」と言いながら、課長はにっこり笑うと、手品師顔負けの手捌(てさば)きも鮮やかに、火の點いていない煙草を口に咥えた。
洟垂れ小僧よろしくその動作をポカンと視ていた二人は、悪さをしている現場を視つかった小学生気分に陥った。
「課長は煙の出ない煙草を、咥えているだけで満足なのですか? そういえば、喫煙している姿をお視受けしたことありませんね、一度も… … 」
古河は菱岡課長を、異人種に対する眼つきで仰ぎ診ながら、そういうと俯いてしまった。
「何時までも息抜きしてないで、きっちり仕事なさいよ。成果を上げないと、私が責任を取らないといけなくなるんだから」
そういうと、課長は煙草をブレザーの内ポケットに蔵い込み、二人をその場に残して立ち去った。
「ほんの一瞬だったが、大眼玉を喰らうかと想ったぞ… … やれやれ」
宮元が大袈裟に胸を撫で下ろす真似をしながら、深く吐息をつくと、新たに煙草を取り出して火を点けた。
「そろそろ戻りましょう。課長に睨まれたら怖いですからね。なにしろ、社内には密かに鬼瓦だなんて綽名を、付けている一派がいるらしいですから… … 悪気はないんでしょうけど」
古河はそういうと、宮元を放ったらかして社内へ戻りかけた。
「そうビクつくこたあーないぞ。確かに鬼瓦のような面相をしているが、あれであの課長は想い遣りのある姐御なんだぜ、知らないだろ」
そういいながら、宮元の方はにやにや笑うと、煙草を携帯灰皿の中で揉み消した。
連日の超過勤務で、古河は疲労困憊していた。終電車に辛うじて間に合い、帰宅したのは夜中の2時ちかくだった。両親は疾(と)うに就寝しており、食卓に手書きのメモがあった。食事をする元気もなく、冷蔵庫から缶ビールと、おふくろの手料理を出した。2,3 口のんだら忽ち酔いが回り、睡魔が襲ってきた。
夜中に小用を足し、校舎によくある手洗い場で手を洗った。手探りで廊下を奥へと進み、うっすら灯りの漏れる右手の広い部屋に入った。何人かが布団を被って寝ていた。綺麗に梳(す)いた短い銀髪の老婆が、寝返りを打った。花崗岩のような顔を此方に向けて、切れ長の昏い眼で古河を凝視した。一瞬だったが、老婆の怖い顔が天女の顔にすり変わったかに視えた。その時、古河は夢から醒めた。
食卓に突っ伏して、何時の間にか、不覚にも寝入ってしまったらしい。宮元と仕事を抜け出し、屋上で一服中に話題にした課長のことが、妙に念頭から離れなかった。夢に現れた老婆の顔と鬼瓦に似た課長の顔とが、少しピンぼけ写真のように重なっていた。
「雷おこし」の創業者、燕宗次郎(つばくろ・そうじろう)は同郷の知人、蔵前鬼参次から広大な土地を無償で譲り受けた。その土地に建てた社屋が完成すると間もなく、それを視届けたかのように鬼参次は消息を断った。鬼参次は一介の瓦職人から、鬼瓦を造る企業家に転身して大成功をおさめた。一代で莫大な資産を手にすると、鬼参次は何を血迷ったか唐突に廃業し、海外に出かけたっきり消息不明になってしまった。
元々、放蕩三昧で家庭を持つこともなく、気儘な生き方が性に合っていたか、五十すぎてもまだ独身を通していたのだから、その変人ぶりは半端ではなかっただろう。鬼参次に顔つきのそっくりな菱岡桜子は、生涯独身を通した鬼参次とどういった間柄だったのか。古河が宮元に問い質しても、曖昧な返事しか返ってこなかった。燕社長から、古参社員に口外禁止のお達しがあったとしか考えられない。
翌日、古河が遅刻して出社すると、社内が騒然としていた。新米から古株に到るまで、仕事を放擲(ほうてき)して三々五々、グループを作り、なにやらヒソヒソと話し込んでいた。その中で、独り悠然と菱岡課長の椅子に腰掛け、落ち着いていたのが宮元だった。古河は、宮元の悠然とした態度に驚いた。呆然と突っ立っている古河を、宮元が苦笑いしながら手招きした。それに気づいた古河は、蹌踉(よろ)めきながら課長席に近づいて行った。
宮元が椅子から立ち上がり、古河の耳許に顔を近づけると呟くように云った。
「菱岡課長が出社しないので、連絡しようとしたが消息不明だ。何か、想い当たるフシはないか……と訊いたところで、新米社員の古河には見当つくまいな」と言いながら、一枚のメモを古河の眼前に突き出した。
古河はメモを受け取り、数字と記号が文面に踊っているのを眼にしてたじろいだ。一体これは如何なる――そう想いながら凝っと視ていると、脳内で日本語に変換し、読み取れるようになった。
「訳あって、退社することに致しました。社長には事情を打ち明け、次期課長に宮元さんということで、了解をいただいています。どうか、会社の発展に今後も貢献してください、心からのお希いです」と書いてあるのを読み終わり、古河は理由もなく熱いものが込み上げてきて、想わず武者震いをしてしまった。
「気づいたと想うが、俺たちは深宇宙から飛来した、訳の分からない知性体の結社に強制加入させられたんだ。この手紙を読めるのは、この会社ではほんの数人に過ぎない。他社でも似たり寄ったりらしい」
そう言いながら、宮元は煙草の箱を机の上で倒したり起こしたり、落ち着かないこと甚だしい。どうやら、動転しているのは古河だけではなかったのだ。
「社長はもちろん、ご存知なんでしょうね」
そこまで言うと、古河は何に驚いたか、跳び上がるような振る舞いをした。
「ご存知どころか、燕社長は言うまでもなく、蔵前鬼参次や菱岡課長も、その訳の分からない知性体ってことだ」
そう言いながら、宮元は何気なく煙草を取り出したものの、喫うのを諦めて、指に挟んで弄(もてあそ)び始めた。宮元の指の間を行ったり来たりしていた煙草は、其の中に宮元の手を離れ、何処へか消えてしまった。宮元はニヤリと笑うと、空間から一本の煙草を取り出した。
「さて、これが消えてしまった煙草と同一かどうかは、確かめようがない。銘柄は一致しているがな……いずれ、制御できるようになるだろう」そういうと、宮元は机に突っ伏して寝入ってしまった。
電器メーカー「雷おこし」の十三階建て自社ビルディングは、屋上だけが地上に露出し、後は全階地下に潜った状態だった。工事に際し、地下には膨大な鬼瓦が眠っており、できるだけ毀損しないようにしながら掘削を行なったという。鬼瓦を掘り起こして、廃棄処分にするのが最も容易(たやす)かったが、燕社長の号令で地下に眠らせておくことになった。唯一、地上に露出した屋上の壁面全体にだけは、魔除けとして鬼瓦を貼り付けてあった。
もし、行楽客が運悪く同地に迷い込み、森を彷徨(さまよ)った挙句に、鬼瓦が睨んでいるのに出っ会わしでもしたら、動転するあまり、一目散に逃げ去ることだろう。悪意を抱いて、「雷おこし」のビルディングを目指したのではあるまいが、そのような眼に遭う行楽客には気の毒なことだ。[完]
自社ビルディングの屋上で、二人の社員が喫煙しながら話し込んでいた。新興企業の中で最も業績好調な電気メーカー「雷おこし」は、奇抜な社名が幸いし、知名度も業績も鰻のぼりだった。初任給では大メーカーに少々後れを取ってはいたものの、製品の市場占有率では国内の同業他社を圧倒していた。現状を今後も堅持できるなら、同社は緒外国の大企業をも追い抜いてしまうにちがいない。
「業績好調なのはいいとして、社屋内の何処にも喫煙室がないなんて、社長がいくら煙草嫌いだとしても愛煙家を冷遇してないか」
猛烈な勢いで鼻からモクモクと、白い煙を噴き出しながら先輩格の宮元一石(みやもと・いっこく)が渋面を作って相手に話しかけた。
「以前、社長は愛煙家というより、チエーン・スモーカーだったそうですね。いったい、何があったのでしょうか、喫煙者を社屋内から締め出すなんて」
新米社員の古河禄郎は、ちょいと気取った恰好で煙草を咥え、西部劇の保安官口調で応えた。
「それなんだよ、屋上でこそこそ喫(す)ってる此方の身にもなってくれってことだな。嘗(かつ)ては、愛煙家だったのなら、煙草なしでは生きられない我々の、苦境を少しは考慮して欲しいもんだ」
宮元は古河をからかうように、時代劇の岡っ引き風な声色で返した。
二人が冗談で盛り上がっている処へ、背高ノッポの菱岡桜子(ひしおか・さくらこ)課長が足音もなく近づき、左右の掌で二人の肩に軽く触れた。驚いた二人は仰け反(のけぞ)るように視上げ、苦笑いをしながら会釈をした。
「あなた方、こんな処で煙草を喫っているのを社長に視つかったら、夏の賞与にひびくわよ」と言いながら、課長はにっこり笑うと、手品師顔負けの手捌(てさば)きも鮮やかに、火の點いていない煙草を口に咥えた。
洟垂れ小僧よろしくその動作をポカンと視ていた二人は、悪さをしている現場を視つかった小学生気分に陥った。
「課長は煙の出ない煙草を、咥えているだけで満足なのですか? そういえば、喫煙している姿をお視受けしたことありませんね、一度も… … 」
古河は菱岡課長を、異人種に対する眼つきで仰ぎ診ながら、そういうと俯いてしまった。
「何時までも息抜きしてないで、きっちり仕事なさいよ。成果を上げないと、私が責任を取らないといけなくなるんだから」
そういうと、課長は煙草をブレザーの内ポケットに蔵い込み、二人をその場に残して立ち去った。
「ほんの一瞬だったが、大眼玉を喰らうかと想ったぞ… … やれやれ」
宮元が大袈裟に胸を撫で下ろす真似をしながら、深く吐息をつくと、新たに煙草を取り出して火を点けた。
「そろそろ戻りましょう。課長に睨まれたら怖いですからね。なにしろ、社内には密かに鬼瓦だなんて綽名を、付けている一派がいるらしいですから… … 悪気はないんでしょうけど」
古河はそういうと、宮元を放ったらかして社内へ戻りかけた。
「そうビクつくこたあーないぞ。確かに鬼瓦のような面相をしているが、あれであの課長は想い遣りのある姐御なんだぜ、知らないだろ」
そういいながら、宮元の方はにやにや笑うと、煙草を携帯灰皿の中で揉み消した。
連日の超過勤務で、古河は疲労困憊していた。終電車に辛うじて間に合い、帰宅したのは夜中の2時ちかくだった。両親は疾(と)うに就寝しており、食卓に手書きのメモがあった。食事をする元気もなく、冷蔵庫から缶ビールと、おふくろの手料理を出した。2,3 口のんだら忽ち酔いが回り、睡魔が襲ってきた。
夜中に小用を足し、校舎によくある手洗い場で手を洗った。手探りで廊下を奥へと進み、うっすら灯りの漏れる右手の広い部屋に入った。何人かが布団を被って寝ていた。綺麗に梳(す)いた短い銀髪の老婆が、寝返りを打った。花崗岩のような顔を此方に向けて、切れ長の昏い眼で古河を凝視した。一瞬だったが、老婆の怖い顔が天女の顔にすり変わったかに視えた。その時、古河は夢から醒めた。
食卓に突っ伏して、何時の間にか、不覚にも寝入ってしまったらしい。宮元と仕事を抜け出し、屋上で一服中に話題にした課長のことが、妙に念頭から離れなかった。夢に現れた老婆の顔と鬼瓦に似た課長の顔とが、少しピンぼけ写真のように重なっていた。
「雷おこし」の創業者、燕宗次郎(つばくろ・そうじろう)は同郷の知人、蔵前鬼参次から広大な土地を無償で譲り受けた。その土地に建てた社屋が完成すると間もなく、それを視届けたかのように鬼参次は消息を断った。鬼参次は一介の瓦職人から、鬼瓦を造る企業家に転身して大成功をおさめた。一代で莫大な資産を手にすると、鬼参次は何を血迷ったか唐突に廃業し、海外に出かけたっきり消息不明になってしまった。
元々、放蕩三昧で家庭を持つこともなく、気儘な生き方が性に合っていたか、五十すぎてもまだ独身を通していたのだから、その変人ぶりは半端ではなかっただろう。鬼参次に顔つきのそっくりな菱岡桜子は、生涯独身を通した鬼参次とどういった間柄だったのか。古河が宮元に問い質しても、曖昧な返事しか返ってこなかった。燕社長から、古参社員に口外禁止のお達しがあったとしか考えられない。
翌日、古河が遅刻して出社すると、社内が騒然としていた。新米から古株に到るまで、仕事を放擲(ほうてき)して三々五々、グループを作り、なにやらヒソヒソと話し込んでいた。その中で、独り悠然と菱岡課長の椅子に腰掛け、落ち着いていたのが宮元だった。古河は、宮元の悠然とした態度に驚いた。呆然と突っ立っている古河を、宮元が苦笑いしながら手招きした。それに気づいた古河は、蹌踉(よろ)めきながら課長席に近づいて行った。
宮元が椅子から立ち上がり、古河の耳許に顔を近づけると呟くように云った。
「菱岡課長が出社しないので、連絡しようとしたが消息不明だ。何か、想い当たるフシはないか……と訊いたところで、新米社員の古河には見当つくまいな」と言いながら、一枚のメモを古河の眼前に突き出した。
古河はメモを受け取り、数字と記号が文面に踊っているのを眼にしてたじろいだ。一体これは如何なる――そう想いながら凝っと視ていると、脳内で日本語に変換し、読み取れるようになった。
「訳あって、退社することに致しました。社長には事情を打ち明け、次期課長に宮元さんということで、了解をいただいています。どうか、会社の発展に今後も貢献してください、心からのお希いです」と書いてあるのを読み終わり、古河は理由もなく熱いものが込み上げてきて、想わず武者震いをしてしまった。
「気づいたと想うが、俺たちは深宇宙から飛来した、訳の分からない知性体の結社に強制加入させられたんだ。この手紙を読めるのは、この会社ではほんの数人に過ぎない。他社でも似たり寄ったりらしい」
そう言いながら、宮元は煙草の箱を机の上で倒したり起こしたり、落ち着かないこと甚だしい。どうやら、動転しているのは古河だけではなかったのだ。
「社長はもちろん、ご存知なんでしょうね」
そこまで言うと、古河は何に驚いたか、跳び上がるような振る舞いをした。
「ご存知どころか、燕社長は言うまでもなく、蔵前鬼参次や菱岡課長も、その訳の分からない知性体ってことだ」
そう言いながら、宮元は何気なく煙草を取り出したものの、喫うのを諦めて、指に挟んで弄(もてあそ)び始めた。宮元の指の間を行ったり来たりしていた煙草は、其の中に宮元の手を離れ、何処へか消えてしまった。宮元はニヤリと笑うと、空間から一本の煙草を取り出した。
「さて、これが消えてしまった煙草と同一かどうかは、確かめようがない。銘柄は一致しているがな……いずれ、制御できるようになるだろう」そういうと、宮元は机に突っ伏して寝入ってしまった。
電器メーカー「雷おこし」の十三階建て自社ビルディングは、屋上だけが地上に露出し、後は全階地下に潜った状態だった。工事に際し、地下には膨大な鬼瓦が眠っており、できるだけ毀損しないようにしながら掘削を行なったという。鬼瓦を掘り起こして、廃棄処分にするのが最も容易(たやす)かったが、燕社長の号令で地下に眠らせておくことになった。唯一、地上に露出した屋上の壁面全体にだけは、魔除けとして鬼瓦を貼り付けてあった。
もし、行楽客が運悪く同地に迷い込み、森を彷徨(さまよ)った挙句に、鬼瓦が睨んでいるのに出っ会わしでもしたら、動転するあまり、一目散に逃げ去ることだろう。悪意を抱いて、「雷おこし」のビルディングを目指したのではあるまいが、そのような眼に遭う行楽客には気の毒なことだ。[完]