わがままな美人
差し出された名刺を受け取らないわけにもいかず、香子は仕方なく、寿子の名刺を受け取る。
「じゃあね。お仕事お疲れ様。気を付けて帰るのよ?」
「……ありがとうございます。では、失礼します」
寿子に頭を下げ、香子は逃げるように早足で歩きだす。
***
磨き上げられた黒のデスクの上に広がるのは、企画会議の資料。重要な箇所にはマーカーで線を引き、気になった個所には直接ペンで書き込みをしているので、資料はどんどんカラフルになっていく。
千秋はアメリカの大学で経営学を学んだ帰国子女。
卒業後はすぐに、父親の会社──“SAGARA”に就職した。部署は営業部。
ただ当然と言うべきなのか、同期だけでなく上司までもが、千秋を特別扱いした。
それは仕方ない。
何せ自分は、社長の息子なのだ。近い将来、確実に社長の肩書を得ることになる人物に、気軽に接してくれる者は少なかった。
だが千秋は、自分が置かれた状況に悲観するような性格ではなかった。
自分はいずれ、“SAGARA”を背負うことになる。同期と距離を置かれようが、上司に媚を売られようが、そんなことは大した問題じゃない。
自分はもっと、先の景色を見ているのだ。
そんな千秋ではあるが、唯一、無視できない言葉がある。
──親の七光り──
こればかりは、どうしても無視できない。
自慢するようなことではないが、千秋は大企業の御曹司として何不自由ない暮らしを送ってきたが、それは苦労を知らないわけじゃあない。
高校進学後は、勉強や部活、委員会だけでなく、アルバイトにも精を出した。
アメリカの大学に進学した後も、親の仕送りに頼らず、アルバイトをいくつも掛け持ちした。挑戦できるものには、なんでも挑戦した。
経験に勝るものはない……つい最近、同じようなことを聞いたような気がするが、まあ、いいか。
いつか自分は、曽祖父が創設し、祖父が事業を拡大し、父が不況の中現状維持し続けてきたこの会社を、引き継ぐのだ。甘えたことは言えない。吸収できるものは、無駄に思えるものでも吸収して、すべての経験を成長の糧にする。
それでも“親の七光り”と言われれば、まだまだという証拠に他ならない。
だから自分はまだ、結婚や家庭に目を向けられないのだ。自分のことで手一杯だから。
「──なんだ?」
デスクの上、内線が静寂をぶち壊す。
「……そうか。ああ。通してくれ」