恋愛コンプレックス
 昨日も適当な言い訳をして残業を免れた私だが、今日こそ本当に免れないと彼との食事が成立しない。私は企画部のミーティングの最中にも頭を抱えてエスケープの理由を考えた。

 「前田さん、考えはまとまりそうですか?」
 チームのダイレクターが頭を抱えっぱなしの私に興味深そうに振ってきたので、それっぽく、もう少し時間を掛けて練っていくつもりです、とだけ答えておいた。

 今はそんなときではない。母はもう何度も危篤にしてしまったし、祖父母も両方生きていると言うのに既に両親分死んでしまったなんて無粋な嘘で会社をずる休みしてしまったし、兄弟はいないし、生理の時貧血で倒れたフリをするのは最近使ったばかりだし、他に誰にも意を唱えさせないほど完璧な理由を考えなくては。

 休憩中に階段の踊り場に設けられている喫煙所でタバコを吸いながら頭をひねっていると、彼から電話がきた。

 「もしもし、征矢です。今大丈夫ですか?」
 吐息が耳にかかりそうな甘い声で彼が言った。
私は見られてもいないのに吸いかけのタバコをもみ消して髪の毛を手ぐしで整えた。
 「ええ。今ちょうど休憩に入ったところなんです。昨日は帰宅したのが遅くて、お電話いただいたのに折り返せなくてすみませんでした。」

 私は軽く頭を下げてから腕時計を気にした。一服分の休憩しかもらってこなかったから、そろそろ持ち場に戻らないと神経質なダイレクターに何を言われるかわからない。

 「いえいえ、気にしてませんよ。で、どうでしょうか今夜のご予定は。この間すごく雰囲気のいい和食の料亭を見つけたんですが、如何ですか?」
 彼は私がイエスと言うのを前提で話している。
ここでノーと言ったら女がすたる。私は喜んで、と声も高々返事をすると急いで電話を切って階段を二段飛ばしで駆け上がった。彼の声を聞くだけで二日酔いなんて蟻に噛まれたくらいにしか感じない。
 空を切って27にもなるパンツスーツの女が階段を汗だくになって駆け上がる。
自然と口元に笑みがこぼれた。
 もしかしたら、彼となら・・・。
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