ぜんぶカシスソーダのせい
千沙乃たちの席からみて、トイレは出入り口を一度通り過ぎた奥にあった。
座席を囲う仕切りのせいで曲がり角が多く迷っていると、向こうからハンカチで手を拭きながらサックスブルーの彼がやってきた。
あ、と口を開けた千沙乃に対して、彼は視界の端にも千沙乃を入れず、そのまま通り過ぎていった。
言いようのない苛立ちが胃の奥からこみ上げる。
こちらはあんなに視線を送っていたのだから、一瞥くらい返してくれてもいいじゃない。
洗面台の鏡に映る、作り笑いに疲れた顔は、理不尽な怒りに歪んだ。
会費聞いておけばよかった。
安いお店みたいだから三千円くらいかな。
誰かにお金を渡して帰りたいけど、席に戻ったら言い出しづらい。
五分ほどそうして過ごしていたら、トイレの戸がノックされた。
仕方なくテーブルに向かうと、角を曲がった先で男性がひとりが待っていた。
斜め向かいに座っていた人だ。
「神永さん、遅かったから様子見に来たんだけど大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
こみ上げる苛立ちで取り繕う余裕をなくし、面倒臭いな、とはっきり表情に出して彼の横を通り過ぎようとした。
ふいにその腕が掴まれる。
「神永さん、あのさ、」
それ以上は聞かなくてもわかるので、眉間の皺が深くなる。
腕を引いてみても指がさらに食い込むだけで離してはもらえない。
「俺、神永さんのこといいなって思ってて。それで、よかったら付き合ってもらえないかな?」
普段ならもう少しやんわり断るのだが、このときの千沙乃には、そんな余裕はなくなっていた。
「私の何を知ってて、付き合いたいなんて言うんですか? 顔? だったらアイドルの写真集見てれば十分じゃないですか。私はほぼ初対面のあなたと付き合いたいなんて思わないし、あなたの顔にも興味ありません」
間髪入れずに返した言葉で、彼の手が緩んだ。
その隙に千沙乃は腕を振りほどく。
「申し訳ないけど、帰るからこれ払っておいてください。足りなかったら後で請求して。お釣りはいりません」