ぜんぶカシスソーダのせい
予想より多めの五千円札を突きつけて身を翻すと、彼はとぼとぼと戻っていった。
わき上がる怒りが収まらず、ヒールの音も高く出口へ急ぐ。
すると、通路を曲がった先で、人にぶつかってしまった。

「うわっ!」

「きゃあ!」

一瞬お酒や居酒屋のゴチャゴチャとした匂いに混じって、男っぽい汗の匂いがした。
すぐに離れたサックスブルーのシャツの上には、気まずそうな顔をした男の顔がある。

「……立ち聞きですか?」

勢いのままに睨みつけると、思いの外真っ直ぐに見下ろされた。

「公共の場ですよ? 聞こえたんです」

毅然として落ち着いた声色が、千沙乃の苛立った心を逆撫でた。
怒鳴りたい気持ちを押さえつけ、背筋を伸ばして顔を見上げる。

「不可抗力でも他人のプライベートを立ち聞きしたなら、謝罪のひとつくらいあってもいいんじゃないですか?」

彼は表情を変えず、ひとつ頷いた。

「一理ありますが、気分が悪いので謝りたくありません」

「……はあ?」

出会い頭の戸惑った様子はなく、彼は千沙乃の前に堂々と立っていた。

「立ち入ったことで、余計なお世話で、赤の他人が口を挟むことじゃありませんけどね、あなた、人を好きになったことないんですか?」

何を言われたのか頭が追いつかないまま、あります、とだけ答えた。

「じゃあわかりませんか? 話したことなんてなくたって、何も知らなくたって、誰かを好きになることはありますよ」

「そんなのただの顔でしょ?」

「そうとも限りませんが、仮に顔だとして、それのどこが悪いんですか? さっきの彼が心からあなたを好きじゃないと決めつける理由にはなりません」

「顔が好きだなんて人、信用できるわけないじゃないですか」

「頭がいい、足が速い、やさしい、面白い、気が利く、犬が好き。チェックリストにひとつひとつマークするように理由を並べる方が、俺は気持ち悪いです。好きな理由なんていらないんです。そんなもの好きになってから探したっていいと俺は思います」

とっさに反論できず、千沙乃はリップの剥げ落ちた唇を噛んだ。

「だけど彼はあなたと付き合わなくてよかったと思いますよ。相手の気持ちを大事にできないような人、俺だったら絶対嫌ですから」
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