新妻ですが、離婚を所望いたします~御曹司との甘くて淫らな新婚生活~
「……本当に、記憶が抜けてるんだな」



ポツリと、独り言のように彼がこぼす。

居た堪れない私は口もとまでを布団で隠したまま、それでも顔を動かして越智くんに視線を向けた。



「ごめんなさい……あの、越智くんのことは、入行前の研修の頃の記憶しか、なくて」



なんて言ったらいいのかわからない。だけどできるだけ相手を傷つけないようにしたくて、しどろもどろ、なんとか言葉を紡ぐ。

すると彼が、何かに気づいたようにメガネの奥にある目をまたたかせた。



「いや、こっちこそ悪い。謝らせるつもりで言ったわけじゃないんだ」



ひとつ息をつき、越智くんはギシリと小さく椅子を軋ませながら自分の両ひざにひじをついて前屈みになる。



「聞きたいことがあれば、俺の知ってる範囲で答えるよ。なんでも言ってくれ」



──って言われても、ほとんど他人みたいな俺が相手じゃ、困るかもしれないけど。

視線を床に落としながらそんなふうにつぶやいて、越智くんが苦く笑った。

その苦笑に、胸がきゅっと絞られるような痛みを覚える。

“悲しい”。“切ない”。

29歳の“私”の心は、どこか寂しげな彼の笑みを見てそんなことを思ったように感じた。

自分の──22歳の私はどうであれ、今この時間の“私”にとって、やはりこの人は特別な存在なんだ。

理屈じゃない。きっとそれはいくら記憶がなくたって、身体が覚えているのかもしれない。
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