恋、花びらに舞う
庭の紫陽花を眺めながらの朝食は申し分のない味だった。
昨日と同じ服は着たくない、だから着替えに帰るという由梨絵を、和真はホテルのショップへ誘った。
開店前の準備に追われるスタッフが、和真が連れてきた由梨絵へ嫌な顔ひとつせず対応してくれたことも、由梨絵の気持ちを楽にさせた。
「彼女に似合う服を選んで」 と、慣れた様子で話しかける和真を、似たようなことが何度もあるのだろうと疑ったが、それは由梨絵の思い過ごしだった。
和真が女性を伴ってきたのは初めてであるとの店長の言葉を、由梨絵は嬉しく聞きながら服を選んだ。
そして、プレゼントされた服を着て和真と向き合って朝食をとっている。
新しい服と言うだけで女は心が弾む、好ましいと思う男に買ってもらった服ならなおさらである。
こんなときは、男が発する尖った言葉もさらりとかわせてしまう。
「ゆうは……あの大学の先輩と親しかったのか」
昨夜は千葉について触れることはなかった和真が、フルーツを口に運びながら、由梨絵の顔を見ずにこんなことを聞いてきた。
やはり気になっていたのかと、由梨絵は和真が嫉妬心を見せたことを密かに喜んだ。
「千葉さん? そうね、卒論のテーマを決めたり、資料とかずいぶん親切にしてもらったのよ」
「親切? 男が下心なしで親切にするか」
「男性がみんなそうとは限らないでしょう。あなたは?」
「俺のことは関係ない。アイツと親しいのかと聞いている」
「卒業前に告白されました。でも、断った。これでいい?」
マンゴーを頬張った和真の口の端がわずかに緩んだ。
「そうか……千葉はいまでも、ゆうを好きなんだろう。そうでなきゃ、ラウンジに誘ったりしない」
「まさか、千葉さん、結婚しているのよ。奥様に失礼よ。私と懐かしい話でもしたかったんでしょう」
「アイツ、家庭持ちか。なるほどね……」
和真の妙に納得した顔を由梨絵は面白がって見た。
過酷なレースの世界に身を置く強靭な精神力を持つ男とは思えない、繊細な心が見えてくる。
和真の心の奥に潜む不安を刺激してはいけない、言葉ひとつで心のバランスが崩れることもあるのだから。
大事なレースを控えた男のために、由梨絵は男が喜ぶことを口にした。
「スペインのスケジュール、早目に教えてね。私にも都合があるから」
「来てくれるのか」
「来いって言ったのは和真でしょう」
「あっ、あぁ……あとで日程表を送る」
スペインは暑いぞ、日本の夏とは違う暑さがあるんだと、和真の口が軽快に動き始めた。
「和真」 と呼んだ効果は絶大だった。
もちろんスペイン行きを伝えたことも。
色とりどりの紫陽花を見ながら、由梨絵は和真と過ごす夏の景色を思い描いていた。
それから2ヶ月後、由梨絵の渡欧の予定が早まったのは、レースチームのマネージャーから事故の一報が入ったためである。
練習中に事故があり、チームメンバーに動揺が広がっているだけでなく朝比奈監督の疲労の色も濃い。
アドバイスが欲しいと言われて、できるだけ早くそちらに参りますと返事をした。
旅の準備を整えていた由梨絵の行動は早かった。
翌日には猛暑の日本を発ち、和真がいるスペインへ向かった。