恋、花びらに舞う
6. 夏木立
スペイン北部に位置するバルセロナは、首都に次ぐ都市である。
サグラダ・ファミリア教会をはじめ、建築家ガウディが手掛けた建物や数々の美術館など、観光地としての人気も高く、また、スペイングランプリが行われるレースシーズンには、世界中から観戦客が訪れる。
由梨絵が乗った便にもレース観戦のツアー客がおり、隣席の男性がまさにそうだった。
夏休みを利用して参加したという男性は、「今年のチーム朝比奈は期待が持てますよ」 と熱心に語り、密かに由梨絵を喜ばせた。
機内アナウンスでバルセロナ空港到着が近いことがつげられると、窓際席の乗客は一様に窓の近くに顔を寄せ、眼下の夜景を眺めて小さな歓声も上がっている。
内側席の由梨絵から夜景は見えないが、機体の下に広がる街のどこかに和真がいる、そう思うだけで軽い高揚感を覚えた。
忙しい和真に代わって、空港にはマネージャーの酒井が迎えに来る予定になっている。
十数時間の空の旅を終え、空港ロビーで酒井の姿を探す由梨絵の目に飛び込んできたのは、サングラスをかけて柱に背を預けて立つ和真の姿だった。
サングラスの目が由梨絵を見つけ、大股で歩み寄ってくる。
彼のもとに駆け寄りたいのに、二つのキャリーバッグが足元の邪魔をして思うように進めない。
夜の空港ロビーは、到着口から吐き出された人と出迎える人々で混雑していた。
久しぶりの再会を大きな声で喜ぶ人、抱擁する人、情熱的なキスを交わすカップルもいる。
和真も表情豊かなこの国の人々にならって熱烈に迎えてくれるのではと、心のどこかで期待していた由梨絵の前に、和真はいつもと変わらぬ顔でやってきた。
「飛行機の中で眠れた?」
「そうね、少しだけ……あなたが来てくれたんだ。酒井さんは?」
「ホテルで待ってる。なぁ、バルセロナ直行便なんて、いつのまにできたんだ?」
日本からの直行便はなかったはずだがと、和真は首をかしげながら由梨絵からキャリーバッグを受け取った。
大荷物だなと笑う顔へ、女は荷物が多いのよと言いながら、由梨絵はふたつめのバッグも預けた。
「チャーター便よ。旅行会社の特別ツアーに入れてもらったの」
「よくチケットがとれたな」
「ツアーコンダクターの友達が手配してくれたの。彼女、いろんなところにツテがあるのよ。
持つべきものは、ツアコンの友人ね」
北欧バルト海ツアーから戻ったばかりの友人は、由梨絵の頼みを聞いてバルセロナまでのチケットを手配してくれた。
その友人は、二日後には同じコースの別のツアー客を率いて再び日本を旅立ったのだと話すのを、ホテルへ向かう車を運転しながら和真は楽しそうに聞いている。
「世界中を回る仕事か。しかし、ハードスケジュールだな」
「慣れているから大丈夫だって、平気な顔をしてた。彼女、F1グランプリのツアーガイドの経験もあるんですって」
「へぇ、どこかで会ったかもしれないね……ゆう、飛行機は座りっぱなしで疲れただろう」
「うぅん……あなたのほうこそ、疲れているのに迎えに来てくれてありがとう」
「こんなに早く会えるとは思わなかった」
由梨絵の早い到着を喜びながら和真の顔には疲労が滲んでいた。
ハンドルを握る和真の膝に、由梨絵はそっと手を置いた。
信号待ちの合間にキスが降ってくるのではとの甘い期待は、信号がかわるやいなやアクセルを踏み込み 「ホテルはもうすぐだ。急ごう」 との声にあっけなく消えた。
「ロビーに酒井がいる。ゆうの部屋は俺の隣だ」
「あなたは? どこか出かけるの?」
「まだ打ち合わせが残っている」
帰りは遅くなる、俺の帰りは待たなくていいと言い残した和真は、ホテルの前に由梨絵を降ろしたあと走り去った。
深夜近くのホテルの前に残された寂しさと言ったらない。
「後藤先生」 と呼ぶ声に振り向くと酒井が立っていた。
酒井の顔は、春のパーティーのあとの懇親会でも一緒だったため覚えていた。
この数日は、電話で何度も声を聞いていた。
「お疲れさまでした。朝比奈さんは?」
「これから打ち合わせがあるそうです」
「はぁ……気になって仕方がないんですね」
すべてのスケジュールに目を通し、すべての打ち合わせに立ち会う和真に休む暇はないのだと、酒井は愚痴のようにこぼした。