恋、花びらに舞う
予選当日の朝、和真の顔に険しさはなかった。
鏡の前で身支度に余念のない由梨絵に 「先に行く。ゆっくりおいで」 と伝える声は穏やかで、昨夜、由梨絵の息が絶え絶えになるまで抱き続けた荒々しさは微塵もない。
「私もすぐに行くわ。いよいよ予選ね、応援してる」
「うん……」
和真を気遣う由梨絵の唇に触れる余裕まであった。
その後、レース場についた由梨絵は、明るくふるまう和真の姿を目にした。
レース前の張り詰めた空気のなかで、チームメンバーの背中に手を置きながら笑顔で語り掛ける和真の様子に、マネージャーの酒井も満足そうである。
「ボディータッチの効果は絶大ですね。後藤先生が伝授したんですか?」
「伝授なんて、おおげさです。スキンシップは相手との距離を縮める方法ですと、そのように話したのは確かですけれど……」
「いまさらですけど、朝比奈さんと後藤先生は、その、恋人ってことでいいんですね」
「さぁ、どうかしら。彼、人気あるでしょう? フリーじゃないかも」
「前は知りませんげど、いまは後藤先生だけですね。後藤先生のいうことは、何でも聞くじゃないですか。あんな朝比奈さん、見たことありません」
練習中の事故以来ナーバスになり、自分を必要以上に追い込む和真に意見してからというもの、「ゆうは怒ると怖いからね」 と言いつつ、和真は由梨絵の言葉を素直に聞いている。
心身の緊張を解き距離を縮めるためにはスキンシップが良いと伝えると、片時も離れず、由梨絵の体のどこかに触れて過ごした。
緊張を解き甘える男を由梨絵は存分に甘やかした。
そのふれ合いが、和真に良い効果をもたらしたのは間違いないが、ふたりの親密さを酒井に見透かされたようで気恥ずかしい。
酒井が突然思い出したようなことを言いだした。
「あっ、ボディータッチじゃなくてスキンシップですね。どう違うんですか? スキンシップとボディータッチって」
「ボディータッチはスキンシップのひとつです」
非言語コミュニケーションともいわれる行為ですと、由梨絵はあえて堅い言葉を選んで答えた。
それが専門家らしく聞こえたのか、酒井はさすが後藤先生だなぁと何度もうなずいた。
「……あの、酒井さん」
「はい?」
「後藤先生と呼ぶのはやめてください」
えっ、と意外そうな顔の酒井へ、由梨絵は先生と呼ばれるのは大学だけにしたいのでと、今度は柔らかく伝えると、
「そうですか……じゃぁ、由梨絵さんと呼んでもいいですか」
由梨絵とそう変わらない年齢の酒井は、急に親しみを見せた。
「ダメだ」
背後からあらわれた和真に飛び上がるほど驚いた酒井は、「じょっ、冗談です」 と言うが早いか、その場から逃げ出した。
「名前で呼ばれるの、私は嬉しいけど……」
「後藤先生でいいじゃないか」
「あなたは ”ゆう” って呼んでるのに?」
「俺は……俺は監督だから」
「そんなの理由にならないでしょう」
「あいかわらず強引だな」
ふたりの会話に割り込んできた声に和真が素早く反応した。
「よお、きたな」
「おう、来てやったぞ」
遠慮のない会話はふたりの親しさを物語っている。