恋、花びらに舞う
3. 五月雨
午前中の講義が終わり講師室に戻った由梨絵は、淀んだ空気を入れ替えるためにデスク横の窓を少し開けた。
カーテンを揺らして入る新緑の風が心地よい。
助手からコーヒーを受け取りデスクに座ると、メモクリップに挟んだ顔写真入りの名刺に目をやった。
写真の中の和真は精悍な顔つきで、イベントの夜、由梨絵を誘った軽い雰囲気とは別人のようだ。
「はぁ……」
「お疲れですか?」
「少し寝不足なの」
「あっ、由梨絵先生も夜中のレースを観たんですね。私も観ました。
朝比奈さんのチーム、惜しかったですね。表彰台まで、あと一歩だったのに」
「えぇ、惜しかったわね」
「先生、朝比奈さんとお知り合いで羨ましいです」
この短大のOGでもある助手は、マナミと同じくレースが趣味で、由梨絵のデスク上の和真の名刺にもいち早く気がついた。
昨夜は、朝比奈和真が率いるレーシングチームが参戦した欧州で行われたレースの中継があった。
それまで車にまったく興味のなかった由梨絵だが、朝比奈のチーム情報に詳しい助手に勧められて、レース中継を観るようになった。
ただ、観るのは和真のチームが参戦するレースだけ。
時差の関係で深夜の放送のため、今日は確かに寝不足ではあるが、さっきのため息はそのせいではない。
桜の季節はとっくに過ぎ、若葉が桜の木を覆いつくすころになっても和真から連絡はない。
あの夜の、由梨絵を誘う和真の言葉や態度に、由梨絵を振り向かせたい強い思いを感じとっていた。
だからこそ、遠からず連絡してくるだろうと思ったのに、季節はやがて雨が紫陽花を濡らすころである。
和真の名刺を見るたびに、いつまで待たせる気だろうとのイラつく思いがため息になった。
自分から追いかける恋は、もうしないと決めていた。
相手の気持ちをさぐり、ジリジリした思いに悩まされるのは圭吾との恋愛で懲りた。
懲りたはずなのに、和真が気になって仕方がない、いっそ、こちらから連絡しようかと思ったことも一度や二度ではない。
そんな自分にもイラついている。
「若い頃、事故で仲間を失った……同じような事故を繰り返さないために、レーシングチームのメンバーにはうるさいことも言う。
何ごともなくレースを終えて、彼らに勝利を味あわせたい。
そのためにも、徹底的に管理する。彼らから、うるさがられたり、憎まれたり、恨まれるのはかまわない」
由梨絵と二人だけの店で、カウンターに並んだ和真はこんなことを語った。
語ったあとで、飲みすぎようだと口数が増えたのを酒のせいにしたが、由梨絵は和真の本心をのぞいた気がした。
厳しい勝負の世界に生きる男の強さは、雄の魅力にも通じる。
さらに、人並み以上の容姿も備わった男である。
魅力的だと思うが、惹かれる思いをやすやすと認めたくない。
由梨絵のプライドが許さないのだ。
だから、由梨絵は和真の行動に賭けた。
電話がきたら、彼の誘いを受けようと……
中継を観戦するようになり、世界中を転戦する和真が忙しいことはわかってきた。
わかるけれど、電話くらいできるのではないかとの思いがイライラを募らせる。
メモクリップの名刺を指先ではじく。
写真の和真の顔が、ゆらゆら揺れながら由梨絵を見ているような気がした。