千尋の話
 チーちゃんはねぇよな、と思う。それは俺がもう26歳だからとかそういう話ではない。呼ばれなれているといえば、呼ばれなれているのだ。母も、8歳上の長姉も、5歳上の次姉も、いまだに俺をそう呼ぶ。父だけは「千尋」と呼び捨てにするけれどたまに気を抜くと「チーくん」とかいって幼い頃に「男同士だよな」と嬉しそうに俺を呼んだその呼び方で呼ぶことがある。だから別に大の男が、とかそんなことを考えているわけではない。


 守屋先輩は大学でたった一年だけサークルで一緒だった。一緒だったと言っても俺が一年生のときには彼はもう4年生だったしサークルの先輩と言ったって彼はもう殆ど顔をだしていなかったけれどたまに飲み会に顔を見せて気持ちのよい先輩風を吹かせる男だった。自慢じゃないが、人の名前と顔を覚えるのは得意じゃない。たまに飲み会に顔を見せる先輩なんて他にもいたしもっと言えばOBやOGもいたわけで、でも、その中でも守屋先輩のことをちゃんと覚えていたのには理由があった。それは初めての大学祭に遡る。

 その大学祭に俺の幼馴染が遊びに来た。小学校も、中学校も、高校も同じで、大学も当然同じ大学に行くと思っていたいわば受験戦争の戦友とも呼ぶべき幼馴染だった。だけど、俺は第一希望の大学に落ちて浪人をせずに滑り止めの方の大学に進学した。滑り止めと言っても、世間的には十分レベルの高い大学だったしなんだかもうこれ以上勉強する気にもなれなかった。
 だけど、その時まで俺は本当は、少し後悔をしていたような気がする。あと少し頑張ったら。人生の半分以上も受験、受験って頑張ってきて、あともう一年くらい頑張ったって良かったんじゃないか。あと一年頑張ったらもっとちゃんとやり切った!って思えたんじゃないか。

 幼馴染のそいつが、まるで俺のその後悔を拾い上げるみたいにその日言ったのだ。
 「チーちゃん、もう一年頑張ってみろよ。きっとあと4年経ったら、あと10年経ったら、浪人しなかった一年を悔やむことになる。偏差値なんて細かい数値の話じゃない、T大学かそうじゃないかの問題だろ。大学を受けたことないやつだって分かるくらいの差だ。」

 風にのって、どこかのサークルが使っているマイクの反響する声が聴こえてくる。だけど何を言っているのかは分からない。俺は足元に落ちている一葉のイチョウの葉を見つめて、あんなに遠くから運ばれてきたのかなと考えた。このキャンパスの西側の外れの歩道がイチョウに縁取られている。スニーカーの足を段差の縁に乗せて、漕ぐように身体を前後に揺らしながら俺はここで何してるんだろうと考える。

 その時、目の前にいた幼馴染がふと何かに気づいたように首を伸ばした。俺の背後の石畳をいくつか飛んだそこに立っていたのは守屋先輩だった。俺は、段差に乗せた足を下ろしてジャケットのポケットから両手を出して「どうもっす」と首だけを前に出すような会釈をした。守屋先輩は、その会釈にすっと手を上げてこたえるみたいにして、それから全身の力を抜くみたいに手を下ろした。
 「ごめん、きこえちった。」
 と、守屋先輩はこちらに数歩寄って来て言った。
 「あのさぁ」
 と守屋先輩は続ける。
 「まだ分からないのかもしれないけど、あと4年したら、あと10年したら、何大とかじゃない、そいつかそいつじゃないか、だぞ?一人の人間の一年間、それを積み重ねた大学の4年間に何をしてきて、そのあとの十年で何をしてくれるやつか。───お前さぁ、チーちゃんが選んだ一年を無駄みたいな言い方すんなよ。友達なんだろ?」

 守屋先輩は、幼馴染から俺に視線を移して少し笑った。その笑顔はいつものサークルの飲み会で見る笑顔とはどこか違った。どう違うのかと言われても説明ができないけれど、でもやっぱりいつもと違う感じの笑顔だと思った。
 「もりや~」
 と、その時先輩を呼ぶ声が聞こえて、サークルの別の先輩が小走りにやってきた。「そうだ、もりやさんだ」と俺はその時やっと彼の名前を覚えていなかったことに思い至った。何か大きな声で受け答えをしている守屋先輩に、俺はさらに大きな声で呼びかけた。

 「守屋先輩!あの!あのー!!あっりがとうございますっっ!」

 なんだか変な拍子をとったみたいになって、でも、俺は言い直したりせずに言い切って、頭を下げた。守屋先輩は、「んだよ」と小さい声でつぶやいて、何て言ったんだろう?と俺が思って顔を上げたときには、いつもみたいに笑っていた。

 それから、守屋先輩は飲み会で顔を出すたびに、俺を見つけるといちいち「チーちゃん」と呼んだ。「チーちゃん、元気か?」「おいチーちゃん、お前、OOの講義取ってたよな?ノート欲しい?」「チーちゃん、唐揚よこせよ」「チーちゃん、最近どうだ?」「チーちゃん、いいジャケット着てんじゃねえか。」といった具合に。

 そして、守屋先輩は無事大学を卒業して、無事社会人になって、大学の飲み会にはあまり顔を見せなくなった。


 何かあると、俺はいつも守屋先輩の言葉を思い出した。新しい学年になって新しいシラバスを手にしたときも、夏休みの長期のアルバイトも、何かを決めるときにはいつも、守屋先輩が俺の幼馴染をまっすぐに見て言った言葉を思い出した。
 「一年を積み上げて大学の四年間で何をやってきたか。何大とかじゃない、そいつかそいつじゃないか、だ。」と。

 だけど俺は大学の四年間に特に素晴らしいことをした訳ではない。普通に同級生達と似たり寄ったりの大学生活を送った。新しいシラバスから、興味深い講義を抜き出して、あまりにも大変そうな講義はできれば避けた。時間的に融通がきき、ある程度楽しめるアルバイトを探して、あるときは一生懸命、あるときはだらだらと働いた。新入生の女の子が気になったり、思いもしないところで想像もしなかった気持ちを打ち明けられたり、毎日は楽しかったり、つまらなかったり、あるいはそんなことも気づかないほど大学生活を謳歌した。

 就職活動は三年生からぼちぼちと始めた。小さい企業も、大きい企業も、自分が何をやりたいのかもわからずに、この先の十年で何かができるとも思えずに採用試験を受けに行って、採用通知をもらったり、不採用通知をもらったりした。でもとにかく大事なことは、厳しいだろうと言われながらも、俺と同じような何万何千という人たちと渡り合って、ちゃんと縁があって就職できたことだ。それは、これまで同じように自分の同級生と渡り合った中学受験や、高校受験や、大学受験よりも、単純に言えばもっと誇りに思える合格だった。自分の積み重ねた四年間を誇りに思える合格だった。


 営業部に配属された。営業部はきっと大変だろうと思う。中には脱落していくやつもいるって聞いている。でも俺はただ淡々とやる気になっていた。守屋先輩があのとき言ってたみたいに「この先の10年で何をやってくれるか?」と会社が俺に何を期待してるかしらないが、いや、多分何の期待もしてないのだろうが、今はまだ分からなくても、一年また一年と積み上げた先の10年後、俺は何をできてるだろう?それを俺自身が楽しみにできる、と思った。

 入社式を終えて新人研修が終わって歓送迎会がゴールデンウィークの後だった。歓送迎会はフロアごとで行うらしくいくつかの部署が合同で行われた。社屋から歩いて15分程の背の低いビルの一階と二階にある中華飯店で二階を貸しきりにしていた。階段を上って円卓がいくつか並んでいるその向こうにはバルコニー席があり、なんだか外国の屋台風のランタンが掛かっている。安っぽいような色合いの、でもそれがどこかエキゾチックで雰囲気のある景色だった。夜は確かに始まっている、その始まりを魅せるような青が窓の向こうに、立ち並ぶビルの窓という窓を壁のように従えてそこにあった。ランタンの下に鈍く光っているテーブルはアルミなんだろうか。俺が目を眇めてバルコニーの方を眺めていると、バルコニーを背にして黒い影が立ち上がった。それは、守屋先輩だった。俺は一瞬、そこがどこだか分からなくなった。守屋先輩は俺を見つめてそれからあの頃のように大きく手を振りながら「チーちゃん!!こっち、こっち!」と俺を呼んだ。周りにいた何人かが、「チーちゃん?」と言って笑った。その時俺は照れくささを感じるよりももっと驚いていたので気にならなかった。

 以来、何かといえば守屋先輩は営業部に顔を出して俺を見つけては「残業か?」「オヤツをやろう。」「直帰するのか?」「メシ食いにいこうよ」と言った具合だ。けれど守屋先輩は社内ではほとんど俺を「チーちゃん」とは呼ばない。それは公私のケジメ、という訳でもないようだった。なぜなら時折は社内でも「チーちゃん」と俺を呼んだからだ。ただ以前のようにまるで嫌がらせをするみたいには、人前で「チーちゃん」と呼ばないように気をつけている、という程度のことらしかった。

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