守屋の話
守屋の話
ちーちゃんって呼ばないでと俺の可愛い後輩が言う。足はまだふらついているように見えるが、いたって真面目な顔をしているところを見るとどうやら本気のようだ。
俺が残念がって黙っていると彼は少しイライラしたみたいにもう一度ちーちゃんて呼ぶなと言った。はいはい、分かったよ、と俺が答えると、今度はなんだよとふくれっ面をしてやめるなと文句を言う。どうやら何とか上戸ってやつだな、と俺は思って可愛い後輩を担ぎなおした。
誕生日の夜に酔っ払った男を担いで歩くのもきっとあと十年もしたらいい思い出だろうと思う。酔っ払った可愛い後輩を担いで歩いたなぁ、若かったなぁ、と俺は思い出すだろう。
俺はこの日、三十路を迎えた。
* * *
ちーちゃんは俺の可愛い後輩だ。大学の可愛い後輩だし、会社の可愛い後輩だ。名前は千尋という。松本千尋。俺よりも四つ年下だったはずだ。出逢った頃の大学生になったばかりのちーちゃんはまだまるで高校生のような風貌だった。多くの学生は、男女に関わらず、大学生になると急に大人びた格好をしてなんだか少し滑稽な程ででもそれがなんとも微笑ましく見えたりするもんだなあと俺は大学四年生になって思った。それに気づくくらいには大人に近づいていたんだろうか。でもちーちゃんには少しもそういう気負いがなくて、まるで昨年の続きのように、高校生が予備校に通うみたいなそんな雰囲気だった。「ちーちゃん」という呼び名は彼によく似合っている。その外見的な部分もだし、それに彼の中身も、なんだろうな、俺が思うには、彼にはまるで少年のようなあてのない野心があってでもそのことに自分で気づいていないような、本人も分からない焦燥感に苛立ちを覚えているのに一生懸命落ち着いてみせようとする、そういう不安定な感じがする。そんなところも子どもっぽくてその呼び名がふさわしい。
ちーちゃんに再会したとき、ちーちゃんは十分に大人になっていた。彼に最後に会ったのはその時よりも三年程前の彼が大学二年生になろうとする春で、いつもはいているデニムにネルのシャツとダウンジャケットを着ていた。職場の歓送迎会に現れたちーちゃんは紺色のスーツを着て水色に紺と山吹色のレジメンタルタイを締めていていかにも新入社員然としていた。
所在なさげに立って店内を観察している新入社員がちーちゃんだと気づいたとき俺はつい「ちーちゃん!」と彼を呼んだ。ちーちゃんは漫画みたいに肩を揺らしてびっくりして「こっち、こっち」と呼ぶといつもみたいに素直に俺の方へやってきた。俺の顔をまじまじと見つめて「守屋先輩、なんでここに?」。──偶然なんだな、俺はまた、可愛い後輩が俺を追って来てくれたのかと一瞬思ったよ。
大人っぽくなったもんだなあと俺は親戚のお兄さんのように可愛い後輩に酢豚を取り分けたりビールを注いだりした。彼は確かに大人っぽくなったけど、でも話していたらやはりちーちゃんはどこか無邪気に野心的で焦燥感に苛立ちつつ冷静沈着を装う不安定な感じがした。多分そこに「自信」が加わった感じだ。その自信に満ちた感じ、満ちるというよりは自信を享受している感じと言うほうが正確な表現だと俺は思うのだけれど、その感じがちーちゃんを大人っぽくしていたように思う。
大人っぽくなったといえば、最近のちーちゃんにはなんというか、色気が出てきたかなと思うことがあった。スーツのせいかもしれないし、社会人としての責任感とかだろうか。たとえば、「今日は直帰?」と俺が尋ねるとちーちゃんはちょっと小首を傾げて考える。その顔はあどけないような、そしてなんとなくもう一歩を踏み込ませない壁を感じるような表情をしている。昼間の休憩中にコンビニでスナック菓子の小袋を買って残業用にくれてやろうと持ってくとちーちゃんは俺を見て少し咎めるみたいな顔で笑う。飯食いに行こうと誘いに行くと俺の顔も見上げずにあと3分待って!などと言い、やっとこっちを向いて顰めた眉を解きながら「…なんだっけ?あ、食事、行きます。」と答える。飯行きます、と言うときの顔はよく知っているちーちゃんなのだけれど、その一瞬前の何かが解ける瞬間、俺は飽きもせずに「こいつ誰だ?」と思う。
そう、ちーちゃんはたしかに大人になったのだ。
大の大人が「ちーちゃん」なんてそらやっぱり気恥ずかしいんだろうか。だけど俺ははじめからこいつをちーちゃんと呼んでいるので今更「まつもとー」とか、「ちひろー」なんて、なんかそっちのほうが気恥ずかしくて呼べない気がする。そういやこいつは今日飲んでるときもそのこと気にしていたっけか。
最近俺がちーちゃんのことを呼ばないって。
俺がお気に入りの居酒屋は父母の故郷四国の味の店だ。高松出身のご主人がやっている店で、醤油豆も美味しいし天ぷらと呼ばれるいわゆる薩摩揚げが美味しかった。だから俺はその2品は必ずたのむことにしている。醤油豆はほっこりと煮てあって、天ぷらを頬張ると魚のすり身のうまみと天ぷらの表のちょっと油っぽい感じがじゅっと口の中に広がる。その時俺は、ちーちゃんが俺をじっと見ていることに気づいた。ふたりで飯を食いに行くようになって気づいたことなのだが、そうやってじっと見つめるのはちーちゃんのちょっとした癖の一つらしい。意外に目力が強い。なんだよ、と言うとちーちゃんは一瞬呆けて「何が?」と言う。多分自分では気づいていないのだ。でも彼は依然として俺のくちびるを見つめているので、俺はなんだか変な気持ちになる。やだやだ、こういうザワザワする感じ、こういう胸騒ぎというのは色んな種類の気持ちがあるけれど、俺の脳味噌はあまりデキが良くなくてこういうザワザワした感じを期待感なのか高揚感なのか不吉な感じなのか色々混乱してしまうのだ。混乱した俺の脳みそについて俺が考えていると、ちーちゃんが言った。
「最近、俺のこと、ちーちゃんって呼ばないんっすね。」
そういや、それで思い出したのだけれど、ちーちゃんは時折妙な言葉の使い方をする。まるで小さな子が覚えたばかりの言葉を使いたがるみたいな使い方をするのだ。それはよくこんなんで大学入試やら就職試験やらの難関を突破してきたなあと思うほどなのだが、多分そういう部分もちーちゃんの魅力なんだろう。この時もちーちゃんは俺が何かというとちーちゃんと呼ぶことを「枕詞」と表現していた。意味もなく頻繁に呼ぶことを彼は言いたかったんだろうし、そういう表現方法がないこともないんだろうけど、まぁ、それはさておき、確かに俺は面白がって何かっていうと可愛い後輩をちーちゃん、ちーちゃんとやたら呼んでいたところもあった。
そもそもは彼のフルネームを知らないまま彼が古い友達にちーちゃんと呼ばれていたのを聞いてなんとなくそのままちーちゃんと呼んだのがきっかけだった。一度呼んでしまうと数ヶ月に一、二度会うか会わないかの後輩を今更別の呼び方もできずに、顔を見ればつい「ちーちゃん」と声をかけてしまう。気づけば自分だけが彼をちーちゃんと呼んでいることを周りの人間は誰も不思議に思っていないし「守屋はあいつを可愛がってるね」というだけのことになった。
ところが、職場の歓送迎会で俺がついうっかり「ちーちゃん」と呼ぶと今度の状況はちょっと違った。一生懸命な新入社員は「ちーちゃん」と可愛がられてもふさわしい人物だったし、そういう意味では同じフロアでも部署が違う俺よりもちーちゃんを可愛がろうとしているやつは他にもいて、高橋という営業部のチームリーダーの一人など、ちーちゃんとチームが別の癖にちーちゃん、ちーちゃんと俺の可愛い後輩をやたらと可愛がり始めた。一度同期の飲み会で一緒になったときに、「あいつは見所があるからいつか俺のチームに引き抜こうと思って」と言っていたので、俺は「それはいいけど、あいつのことちーちゃんって呼んでいいのは俺だけだからいますぐやめて」と高橋に正面から言ってやった。高橋は笑いながら「なんだ、それ」とタバコをぐいっと吸い込んで、でも俺が真面目な顔をしているのを見ると「なんか知らんけど、分かった」と物分りよく引き下がった。「なんか、一人前に見てもらえてないみたいで嫌だって、この前言ってたから。でも、俺も癖だからアレで」俺はとってつけたみたいにでたらめな言い訳をした。高橋はもう一度深くタバコを吸い込むと「ま、たしかにね、境目がなくなっちゃうのは良くないし。」と灰皿にぎゅっと押し付けながらタバコを吐いて言った。境目、という言葉を俺が脳裏で繰り返しているうちに、高橋はトイレに立った。
* * *
「いい、匂い」
と、俺の可愛い後輩が言う。なんの匂いだろうと俺は少し深めに息を吸って確かめたけれど特になんの匂いもしない。そして、
「ちーちゃん、って呼ばないでよ」
と俺の可愛い後輩が言う。俺は立ち止まり自分の右側に抱えた男を見つめた。ちーちゃんは真面目な顔をしていた。そっか、そうだよな、と俺が残念に思っていると、ちーちゃんはもう一度念をおす。
「チーちゃんって、呼ぶな。」
俺は心底残念に思うけれど、酔っ払ったちーちゃんが勇気を出して俺に言ってると思うとそれはそれで可愛いし、真面目に応えるべきだと思って、
「分かったよ」
と答えた。袖をまくったちーちゃんの腕はうっすらと汗をかいていて滑りそうになるので俺はもう一度彼の腕を抱えなおした。ちーちゃんは、
「なんだよ。分かったってなんだよ!」
と、俺に抱えられた腕で俺の肩を小突いた。随分長い間抱え込んでいたんだろうか、悪かったなあと俺は軽い気持ちで彼を幼げな呼び名で呼び続けたことを後悔した。
「だから、チーちゃんって、もう、呼ばないよ。」
と、俺は誠意を持って彼に言った。すると今度は、
「ダメだよ、呼べよ。」
と、俺の可愛い後輩は言う。
俺は一瞬戸惑う。どっちだ、どっちが彼の本音なんだろう。そしてすぐにあぁ、こいつは何とか上戸ってやつだな、と合点してちーちゃんをもう一度抱え直して歩きだした。
何上戸っていうんだっけ…と俺が考えているとちーちゃんが立ち止まった。
具合が悪いんだろうか。公衆トイレがどっかにあったっけ?俺は脳内マップをぐるぐると検索する。
その時、ちーちゃんの腕が俺の方へ伸びた。倒れる!! と、その瞬間に彼の腕は俺の首に巻きついた。大丈夫、具合悪い?と訊こうとした一瞬前に、ちーちゃんが俺の肩に頭を乗せて言った。
「やっぱり、せんぱい、いい匂いがする」
俺はもう一度深く息を吸った。夜の匂いがした。正確に言うと夜の匂いってこんな匂いだろうかと思うような匂いがした。そして、俺の肩でちーちゃんの頭がこっち向きになってくんくんと俺の匂いを嗅いだのが分かった。
──え?あれ?
胸がざわざわした。
俺の混乱した脳みそが不安を訴える。
不吉な予感がする、いや、そうではなくて、違う、これは、違う種類の。
ちーちゃんが俺になだれたときに彼を支えようとして中途半端に持ち上がった俺の腕(かいな)の中で、ちーちゃんの硬い背中がゆっくりと解けていくのが分かった。俺の可愛い後輩がフラッシュバックのように脳裏に浮かぶ。怒鳴るみたいに「先輩」と俺を呼ぶまるでまだ少年のようだった声、夜気に身震いしながらダウンコートを纏う肩、「ちーちゃんって呼ぶな!」と苛立つ彼の声、紺色のスーツを着て背筋を伸ばした立ち姿や、ネクタイを緩めたワイシャツの首筋、集中力が緩む一瞬の顔、「Bスタースナックうまいっすよね」って言うちょっと嬉しそうな声、それから・・・・
俺は可愛い後輩を抱きしめようとした、それは本能的に。それからちーちゃんが俺から一歩離れるのが多分同時だった。
俺の可愛い後輩が俺をじっと見て言った。
「千尋ってね、深さの単位なんだよ。」
そんなの、知ってる。何を今更。
俺は可愛い後輩を見つめた。千尋(せんじん)の谷を這い上がってくる獅子のように育てと、きっと彼の両親は彼を名づけたんだろう。獅子というには少し頼りない、けれど確かに凛々しい青年を俺はじっと見つめた。
千尋(ちひろ)が、少し睨むような顔をして「なんだよ、急に、ってカオしてる」と俺を咎める。そりゃぁ、なんだよ急にって思ってるから、と俺は答えた。
「ちーちゃん」
と俺は可愛い後輩を呼んだ。そう呼ぶのはもうこれが最後になるだろう。
「ちーちゃん、って呼ぶの、もう止めるよ」
千尋は微笑む。
「ちひろ、って呼ぼうかな」
俺はもうとっくに決めているのにそんな風に千尋の様子を伺った。千尋は目を伏せて照れくさそうに「うん」と言う。俺は千尋を抱き寄せた。千尋の骨ばった肩と背中が俺の腕の中でゆっくりと上下を繰り返すのを確かめた。
「千尋」
と俺が呼ぶと、千尋は少し身じろいだ。
終わり
ちーちゃんって呼ばないでと俺の可愛い後輩が言う。足はまだふらついているように見えるが、いたって真面目な顔をしているところを見るとどうやら本気のようだ。
俺が残念がって黙っていると彼は少しイライラしたみたいにもう一度ちーちゃんて呼ぶなと言った。はいはい、分かったよ、と俺が答えると、今度はなんだよとふくれっ面をしてやめるなと文句を言う。どうやら何とか上戸ってやつだな、と俺は思って可愛い後輩を担ぎなおした。
誕生日の夜に酔っ払った男を担いで歩くのもきっとあと十年もしたらいい思い出だろうと思う。酔っ払った可愛い後輩を担いで歩いたなぁ、若かったなぁ、と俺は思い出すだろう。
俺はこの日、三十路を迎えた。
* * *
ちーちゃんは俺の可愛い後輩だ。大学の可愛い後輩だし、会社の可愛い後輩だ。名前は千尋という。松本千尋。俺よりも四つ年下だったはずだ。出逢った頃の大学生になったばかりのちーちゃんはまだまるで高校生のような風貌だった。多くの学生は、男女に関わらず、大学生になると急に大人びた格好をしてなんだか少し滑稽な程ででもそれがなんとも微笑ましく見えたりするもんだなあと俺は大学四年生になって思った。それに気づくくらいには大人に近づいていたんだろうか。でもちーちゃんには少しもそういう気負いがなくて、まるで昨年の続きのように、高校生が予備校に通うみたいなそんな雰囲気だった。「ちーちゃん」という呼び名は彼によく似合っている。その外見的な部分もだし、それに彼の中身も、なんだろうな、俺が思うには、彼にはまるで少年のようなあてのない野心があってでもそのことに自分で気づいていないような、本人も分からない焦燥感に苛立ちを覚えているのに一生懸命落ち着いてみせようとする、そういう不安定な感じがする。そんなところも子どもっぽくてその呼び名がふさわしい。
ちーちゃんに再会したとき、ちーちゃんは十分に大人になっていた。彼に最後に会ったのはその時よりも三年程前の彼が大学二年生になろうとする春で、いつもはいているデニムにネルのシャツとダウンジャケットを着ていた。職場の歓送迎会に現れたちーちゃんは紺色のスーツを着て水色に紺と山吹色のレジメンタルタイを締めていていかにも新入社員然としていた。
所在なさげに立って店内を観察している新入社員がちーちゃんだと気づいたとき俺はつい「ちーちゃん!」と彼を呼んだ。ちーちゃんは漫画みたいに肩を揺らしてびっくりして「こっち、こっち」と呼ぶといつもみたいに素直に俺の方へやってきた。俺の顔をまじまじと見つめて「守屋先輩、なんでここに?」。──偶然なんだな、俺はまた、可愛い後輩が俺を追って来てくれたのかと一瞬思ったよ。
大人っぽくなったもんだなあと俺は親戚のお兄さんのように可愛い後輩に酢豚を取り分けたりビールを注いだりした。彼は確かに大人っぽくなったけど、でも話していたらやはりちーちゃんはどこか無邪気に野心的で焦燥感に苛立ちつつ冷静沈着を装う不安定な感じがした。多分そこに「自信」が加わった感じだ。その自信に満ちた感じ、満ちるというよりは自信を享受している感じと言うほうが正確な表現だと俺は思うのだけれど、その感じがちーちゃんを大人っぽくしていたように思う。
大人っぽくなったといえば、最近のちーちゃんにはなんというか、色気が出てきたかなと思うことがあった。スーツのせいかもしれないし、社会人としての責任感とかだろうか。たとえば、「今日は直帰?」と俺が尋ねるとちーちゃんはちょっと小首を傾げて考える。その顔はあどけないような、そしてなんとなくもう一歩を踏み込ませない壁を感じるような表情をしている。昼間の休憩中にコンビニでスナック菓子の小袋を買って残業用にくれてやろうと持ってくとちーちゃんは俺を見て少し咎めるみたいな顔で笑う。飯食いに行こうと誘いに行くと俺の顔も見上げずにあと3分待って!などと言い、やっとこっちを向いて顰めた眉を解きながら「…なんだっけ?あ、食事、行きます。」と答える。飯行きます、と言うときの顔はよく知っているちーちゃんなのだけれど、その一瞬前の何かが解ける瞬間、俺は飽きもせずに「こいつ誰だ?」と思う。
そう、ちーちゃんはたしかに大人になったのだ。
大の大人が「ちーちゃん」なんてそらやっぱり気恥ずかしいんだろうか。だけど俺ははじめからこいつをちーちゃんと呼んでいるので今更「まつもとー」とか、「ちひろー」なんて、なんかそっちのほうが気恥ずかしくて呼べない気がする。そういやこいつは今日飲んでるときもそのこと気にしていたっけか。
最近俺がちーちゃんのことを呼ばないって。
俺がお気に入りの居酒屋は父母の故郷四国の味の店だ。高松出身のご主人がやっている店で、醤油豆も美味しいし天ぷらと呼ばれるいわゆる薩摩揚げが美味しかった。だから俺はその2品は必ずたのむことにしている。醤油豆はほっこりと煮てあって、天ぷらを頬張ると魚のすり身のうまみと天ぷらの表のちょっと油っぽい感じがじゅっと口の中に広がる。その時俺は、ちーちゃんが俺をじっと見ていることに気づいた。ふたりで飯を食いに行くようになって気づいたことなのだが、そうやってじっと見つめるのはちーちゃんのちょっとした癖の一つらしい。意外に目力が強い。なんだよ、と言うとちーちゃんは一瞬呆けて「何が?」と言う。多分自分では気づいていないのだ。でも彼は依然として俺のくちびるを見つめているので、俺はなんだか変な気持ちになる。やだやだ、こういうザワザワする感じ、こういう胸騒ぎというのは色んな種類の気持ちがあるけれど、俺の脳味噌はあまりデキが良くなくてこういうザワザワした感じを期待感なのか高揚感なのか不吉な感じなのか色々混乱してしまうのだ。混乱した俺の脳みそについて俺が考えていると、ちーちゃんが言った。
「最近、俺のこと、ちーちゃんって呼ばないんっすね。」
そういや、それで思い出したのだけれど、ちーちゃんは時折妙な言葉の使い方をする。まるで小さな子が覚えたばかりの言葉を使いたがるみたいな使い方をするのだ。それはよくこんなんで大学入試やら就職試験やらの難関を突破してきたなあと思うほどなのだが、多分そういう部分もちーちゃんの魅力なんだろう。この時もちーちゃんは俺が何かというとちーちゃんと呼ぶことを「枕詞」と表現していた。意味もなく頻繁に呼ぶことを彼は言いたかったんだろうし、そういう表現方法がないこともないんだろうけど、まぁ、それはさておき、確かに俺は面白がって何かっていうと可愛い後輩をちーちゃん、ちーちゃんとやたら呼んでいたところもあった。
そもそもは彼のフルネームを知らないまま彼が古い友達にちーちゃんと呼ばれていたのを聞いてなんとなくそのままちーちゃんと呼んだのがきっかけだった。一度呼んでしまうと数ヶ月に一、二度会うか会わないかの後輩を今更別の呼び方もできずに、顔を見ればつい「ちーちゃん」と声をかけてしまう。気づけば自分だけが彼をちーちゃんと呼んでいることを周りの人間は誰も不思議に思っていないし「守屋はあいつを可愛がってるね」というだけのことになった。
ところが、職場の歓送迎会で俺がついうっかり「ちーちゃん」と呼ぶと今度の状況はちょっと違った。一生懸命な新入社員は「ちーちゃん」と可愛がられてもふさわしい人物だったし、そういう意味では同じフロアでも部署が違う俺よりもちーちゃんを可愛がろうとしているやつは他にもいて、高橋という営業部のチームリーダーの一人など、ちーちゃんとチームが別の癖にちーちゃん、ちーちゃんと俺の可愛い後輩をやたらと可愛がり始めた。一度同期の飲み会で一緒になったときに、「あいつは見所があるからいつか俺のチームに引き抜こうと思って」と言っていたので、俺は「それはいいけど、あいつのことちーちゃんって呼んでいいのは俺だけだからいますぐやめて」と高橋に正面から言ってやった。高橋は笑いながら「なんだ、それ」とタバコをぐいっと吸い込んで、でも俺が真面目な顔をしているのを見ると「なんか知らんけど、分かった」と物分りよく引き下がった。「なんか、一人前に見てもらえてないみたいで嫌だって、この前言ってたから。でも、俺も癖だからアレで」俺はとってつけたみたいにでたらめな言い訳をした。高橋はもう一度深くタバコを吸い込むと「ま、たしかにね、境目がなくなっちゃうのは良くないし。」と灰皿にぎゅっと押し付けながらタバコを吐いて言った。境目、という言葉を俺が脳裏で繰り返しているうちに、高橋はトイレに立った。
* * *
「いい、匂い」
と、俺の可愛い後輩が言う。なんの匂いだろうと俺は少し深めに息を吸って確かめたけれど特になんの匂いもしない。そして、
「ちーちゃん、って呼ばないでよ」
と俺の可愛い後輩が言う。俺は立ち止まり自分の右側に抱えた男を見つめた。ちーちゃんは真面目な顔をしていた。そっか、そうだよな、と俺が残念に思っていると、ちーちゃんはもう一度念をおす。
「チーちゃんって、呼ぶな。」
俺は心底残念に思うけれど、酔っ払ったちーちゃんが勇気を出して俺に言ってると思うとそれはそれで可愛いし、真面目に応えるべきだと思って、
「分かったよ」
と答えた。袖をまくったちーちゃんの腕はうっすらと汗をかいていて滑りそうになるので俺はもう一度彼の腕を抱えなおした。ちーちゃんは、
「なんだよ。分かったってなんだよ!」
と、俺に抱えられた腕で俺の肩を小突いた。随分長い間抱え込んでいたんだろうか、悪かったなあと俺は軽い気持ちで彼を幼げな呼び名で呼び続けたことを後悔した。
「だから、チーちゃんって、もう、呼ばないよ。」
と、俺は誠意を持って彼に言った。すると今度は、
「ダメだよ、呼べよ。」
と、俺の可愛い後輩は言う。
俺は一瞬戸惑う。どっちだ、どっちが彼の本音なんだろう。そしてすぐにあぁ、こいつは何とか上戸ってやつだな、と合点してちーちゃんをもう一度抱え直して歩きだした。
何上戸っていうんだっけ…と俺が考えているとちーちゃんが立ち止まった。
具合が悪いんだろうか。公衆トイレがどっかにあったっけ?俺は脳内マップをぐるぐると検索する。
その時、ちーちゃんの腕が俺の方へ伸びた。倒れる!! と、その瞬間に彼の腕は俺の首に巻きついた。大丈夫、具合悪い?と訊こうとした一瞬前に、ちーちゃんが俺の肩に頭を乗せて言った。
「やっぱり、せんぱい、いい匂いがする」
俺はもう一度深く息を吸った。夜の匂いがした。正確に言うと夜の匂いってこんな匂いだろうかと思うような匂いがした。そして、俺の肩でちーちゃんの頭がこっち向きになってくんくんと俺の匂いを嗅いだのが分かった。
──え?あれ?
胸がざわざわした。
俺の混乱した脳みそが不安を訴える。
不吉な予感がする、いや、そうではなくて、違う、これは、違う種類の。
ちーちゃんが俺になだれたときに彼を支えようとして中途半端に持ち上がった俺の腕(かいな)の中で、ちーちゃんの硬い背中がゆっくりと解けていくのが分かった。俺の可愛い後輩がフラッシュバックのように脳裏に浮かぶ。怒鳴るみたいに「先輩」と俺を呼ぶまるでまだ少年のようだった声、夜気に身震いしながらダウンコートを纏う肩、「ちーちゃんって呼ぶな!」と苛立つ彼の声、紺色のスーツを着て背筋を伸ばした立ち姿や、ネクタイを緩めたワイシャツの首筋、集中力が緩む一瞬の顔、「Bスタースナックうまいっすよね」って言うちょっと嬉しそうな声、それから・・・・
俺は可愛い後輩を抱きしめようとした、それは本能的に。それからちーちゃんが俺から一歩離れるのが多分同時だった。
俺の可愛い後輩が俺をじっと見て言った。
「千尋ってね、深さの単位なんだよ。」
そんなの、知ってる。何を今更。
俺は可愛い後輩を見つめた。千尋(せんじん)の谷を這い上がってくる獅子のように育てと、きっと彼の両親は彼を名づけたんだろう。獅子というには少し頼りない、けれど確かに凛々しい青年を俺はじっと見つめた。
千尋(ちひろ)が、少し睨むような顔をして「なんだよ、急に、ってカオしてる」と俺を咎める。そりゃぁ、なんだよ急にって思ってるから、と俺は答えた。
「ちーちゃん」
と俺は可愛い後輩を呼んだ。そう呼ぶのはもうこれが最後になるだろう。
「ちーちゃん、って呼ぶの、もう止めるよ」
千尋は微笑む。
「ちひろ、って呼ぼうかな」
俺はもうとっくに決めているのにそんな風に千尋の様子を伺った。千尋は目を伏せて照れくさそうに「うん」と言う。俺は千尋を抱き寄せた。千尋の骨ばった肩と背中が俺の腕の中でゆっくりと上下を繰り返すのを確かめた。
「千尋」
と俺が呼ぶと、千尋は少し身じろいだ。
終わり