偽装夫婦~御曹司のかりそめ妻への独占欲が止まらない~
* * *
「運転手さん、もう少し早く行ける道はありませんか?」
「無茶言わないでよ。急な雨で、道が混んでるんだ」
家まであと少し、僕は迷わず雨の中を走ることを選んだ。
力任せに門扉を開け放ち、玄関に向かう。これまでこの距離がこんなに煩わしいと思ったことはなかった。
到着したころには、スーツは雨に濡れてすっかり重くなっていた。帰宅したと声もかけずに、自室に向かう。
ほんの少しの時間でも、今は惜しかった。大事なモノが自分の手からすり抜けようとしているのを黙ったまま見過ごすなんてできない。
自室の前では秋江さんが、オロオロとした様子で立っていて、僕の姿を見た瞬間にほっとしたような顔になった。
そこに立っているということは、那夕子はまだ部屋にいるらしい。
どうにか間に合ったみたいだ。
「那夕子」
ノックもせずに扉を明けた。ボストンバッグを手に扉に背中を向けていた彼女の肩がびくっと震える。
きっと僕だとわかっているはずだ。だから彼女はこちらを見ない。
結局焦れた僕が彼女の前に回り込む。
ずっと会いたくて仕方が無かったのに、彼女は僕を拒むように決して俯けた顔を上げようとはしなかった。
テーブルの上には置き手紙。丸みを帯びた女性らしい字。僕の名前が書いてある。
「こんな手紙ひとつで、出て行くつもり?」
努めて冷静に。決して焦るんじゃない。
自分にそう言いきかせた。