偽装夫婦~御曹司のかりそめ妻への独占欲が止まらない~
「えっ?」
驚いたわたしは、川久保さんの顔を見た。
彼は真剣な眼差しを向けていた。先ほどまでの和やかさは陰を潜め、急に訪れたシリアスな雰囲気に戸惑ってしまう。
彼はわたしの手をそっと離すと、まっすぐに見据えてきた。
「まだ、名前を聞いてません。それにもう一度――お礼をしなくては」
「お礼は十分いただきました。おいしいラーメンもおごっていただいたし。片野先生からも助けてもらったので。あのままひとりで帰っていたら、きっと色々と考えて落ち込んでいたと思います」
今日会ったばかりの人だったけれど、本当に楽しかった。
わたしの言葉に、川久保さんは「そうですか」とだけ短く答えた。
その言葉にさみしさが含まれていると感じたのは、たぶんわたしの勘違いだ。
「だったら、名前だけでも。あなたの名前を知りたいです」
それになんの意味があるのだろうかと思う。だから教えてしまってもいい。けれど他人だから気を遣わずに楽しい時間が過ごせたように思える。
元彼とのいざこざなんてかっこ悪いところを見られてしまった後も、肩肘張らずに話ができた。
この他人という距離感が心地良かった。傷つけられない距離がちょうどよかった。
だからわたしは、ゆっくりと顔を左右に振った。
「そうですか、すみません。呼び止めてしまって」
川久保さんもそれ以上はなにも言ってこなかった。彼の紳士的な振る舞いにわたしは笑みを浮かべた。
「では、失礼します」
「また、いつかどこかで」
にっこりと笑った。ふたりでかわした言葉が風に舞う。
わたしは笑顔でうなずくと、駅の改札に向かって歩き出した。