偽装夫婦~御曹司のかりそめ妻への独占欲が止まらない~


「失礼します」

 コーヒーの乗ったワゴンを持った秋江さんが、中に入って来た。

「さっきは、紅茶だったので。コーヒーにしましたが、大丈夫ですか?」

「はい。大好きです」

 わたしの答えににっこりとほほえんだ川久保さんだったが、すぐにその表情が真剣なものに変わった。

「秋江さん、おばあ様のことだけど、あんなことを言い出したのは初めてですか?」

 秋江さんの顔も曇る。おそらく彼女もびっくりしたに違いない。

「はい。わたしが存じ上げているかぎりでは、そうですね」

〝あんなこと〟というのは、わたしと川久保さんを夫婦だと言ったことだろう。現実ではないことを、さも現実のように言っていることだ。

 もしかすると痴呆の症状が、出始めたのかもしれない。

 川久保さんは「はぁ」とため息をついて、髪をかき上げた。

「まさか、祖母がね……」

 力なくそう言った彼は、しばらく天井を仰いでいた。

 目にしたくない現実をつきつけられたのだ。気を落とすのは無理もない。

 わたしはだまったまま、なにも言わずに座っていた。どう言葉をかけたらいいのか、わからないからだ。

 医療従事者として様々な場面に遭遇してきたけれど、こういったときにどう対処するのが正解なのか、いまだにわからないままでいる。

「来るときが、きたと……いうことか。秋江さん、ありがとう」

「はい、失礼します」
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