魔法使いになりたいか

§6

「はい、これ。あんたも男の一人暮らしじゃ、さみしいと思って」

中に入っていたのは、スーパーで買ってきた大量のお総菜。

「今夜のおかずにでもして。ほら、菜々子がお世話になってるから」

香澄は、俺の膝に座る導師を見下ろした。

「私、妊婦じゃない? 猫には、引っかかれたくないんだけど」

導師と目が合う。

「追いだしてくれない? 猫の毛も嫌だし」

香澄は勝手に居間へと上がって行く。

「やれやれだな」

導師は立ち上がって、全身を伸ばしてから床に飛び降りた。

「導師、ごめんね!」

「私は散歩に行きたくなったから、出て行くだけだ」

居間に戻って、もらったお総菜を冷蔵庫に入れる。

作り置きおかずのタッパーは、奥に押し込んでおく。

「え? あんたんちって、両親とも弁護士なの?」

「えぇ、特に自慢するほどのことでもありませんけどね」

香澄は北沢くんの両親に興味津々で、北沢くんは得意げにその話にのっている。

「僕も将来は、医者か弁護士になる予定です」

香澄は笑った。

「なに? 菜々子は、この子が目当てだったの?」

北沢くんは、顔をまっ赤にしてうつむいて、俺はその隣に座った。

「この家って、あんた以外は上出来なんだね」

「そんなことないよ」

俺だけが、本当はマトモなんだけど、そんなことを言っても、彼女には通じないだろうから言わない。

その日の夜、久しぶりに千里が早く帰ってきた。

全国ツアーのリハーサルとかで、練習に体力を使うから、早めに終わるようにしてるんだって。

千里は、冷蔵庫のお総菜を見て、変な顔をしてたけど、俺の方をちらりと見ただけで、何も言わなかった。

朝になって、開店準備のシャッターを開ける。

今日は天気がいいから、布団を干して洗濯をしよう。

そしたら、家中を掃除して回ろう。

そう思って、洗濯の終わったシーツを庭の物干し台にかけたところで、香澄が現れた。

「おはよー」

彼女はまた、買い物袋をぶら下げている。

居間のちゃぶ台の上には、昨日もらったお総菜に、アレンジを加えた朝ご飯と、座布団には導師。

香澄は、昨日のうちに買っておいたらしい割引の総菜が入った袋を、導師に向かって投げつけた。

導師はちゃぶ台の下に逃げ込む。

「なにこれ、私への当てつけ? さっさとこの猫、追いだしてって言ったよね」

香澄はそばにあった布団叩きを拾いあげると、ちゃぶ台の脚を何度も叩きつける。

「待って!」

台の下から飛び出した導師を、香澄は思いっきり叩きつけた。

導師の体が宙に浮きあがり、棚にぶつかる。

導師は矢のように逃げ去った。

「なんでそんなことをするの! 俺は、導師を探してくる!」

「何その名前、ドウシって、同士? あんたの仲間?」

香澄は、手にした布団叩きを放り投げた。

「あたしが今ここにいるのに、なんであんたが出て行くのよ」

「導師がいなくなったからだよ!」

突然、香澄は俺の胸ぐらをつかむと、足をなぎ払い床に押し倒した。

「ねぇ、妊婦でも、セックスできるって、知ってた?」

香澄は落ちてきた髪を、耳にかき上げる。

「エッチ、しよっか」

彼女の突き出た大きなお腹が、俺の腹部を圧迫する。

這わせた手が股間に到達すると、香澄の唇が俺に触れた。

「菜々子ちゃんのお父さんって、三浦くんなの? 中学の時、つき合ってたよね、そのまま結婚したって聞いたけど、菜々子のお父さんって、やっぱりそうなんだ」

香澄の手が止まった。

高校を卒業してから、俺はずっと地元で暮らしている。

同じ所に長く住んでいると、いろんなことが、勝手に耳に入ってくる。

「元気にしてるの?」

三浦くんは、作業現場の事故で亡くなったと聞いている。

「今は、どこに住んでるの? 三浦くんちの実家? それとも別に部屋を借りた?」

駆け落ちみたいにして結婚したから、義両親とは音信不通で、香澄は実の両親とも、昔から仲が悪かった。

「それとも、自分のうちに戻ったの?」

大きいお腹で突然帰ってきた出戻り娘の噂は、実のお母さんの悪口という形で、とっくに近所に知れ渡っている。

「お腹の赤ちゃんも、もうすぐ生まれてくるの、楽しみだね」

この子の父親は、誰だか分からないそうだ。

「今のあんたに、そんなこと関係ないでしょう!」

強引に唇を寄せる香澄から、俺は必死で抵抗する。

「なによ、いいじゃないの、ちょっとぐらい。そうだ、面白いことしてあげようか」

香澄はお腹を俺の腹部に押し当てたまま、両手両足を浮かせた。

「ほら、こうやっても全然お腹潰れないんだよ、風船みたいでしょ?」

お腹の子と、香澄の体重が俺の体にのしかかる。香澄は大声で笑っている。

「潰してやろうかと思ってさ、いつもこれやってるんだけど、なかなか潰れないんだぁ、これが! 案外丈夫なうえに、しぶといよね、このままあんたのお腹の上でふたりとも死んだら、それってもしかして腹上死ってやつ?」

香澄の笑い声は、俺を俺じゃない何者かに変えてしまいそうだ。

「やめろよ!」

お腹をクッションにして飛び跳ねる香澄を、下にして組み伏せた。

「こんなことして、なにが楽しいんだ!」
< 29 / 37 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop