さよなら、センセイ

ヒロは首を横に振ると、胸の前で腕を組んで難しい顔をした。

「俺さ、スゲェ好きな人がいて。
その人の為になら、なんでもしてあげたいんだ。だから、血反吐吐くほど努力することも辛くなくて、仕事も頑張れる。
だけど仕事頑張ると時間がなくなって、全然一緒にいられなくてさ。
どうしたらいいんだろ」


ヒロの告白に、恵はみるみる顔を青ざめていく。

ヒロに好きな人。
そんな人がいたなんて、気づかなかった。

「し、仕事も大事だけど、自分の時間も大事だから…一緒にいられる時間、増やせると、いいわね」

声が震える。
恵の脳裏に、秘書をはじめとした、いつもヒロの周りにいる女性の顔が浮かんでくる。

「うん。
一緒にいる時間増やして。
ついでに家族も増やして。
俺にとって大事なもの、もっと増やしたいと思ってるよ」

その場の全員がヒロの惚気だとわかって、なんとも言えないにやけ顔になっていた。


だが。
恵だけは、一層青ざめていく。

ーー冷静に。冷静にならなきゃ。

恵はグラスのアルコールを飲んでから、ヒロにかける言葉を探す。

「そう。
大事なものがあるのは、いいことね、丹下くん」


「…恵?」

ヒロは恵の頬に手を当てた。

家では相変わらず『メグ』と呼ぶ。
だが、外へ出ると、恵の夫として『恵』と呼び捨てにして欲しい。同居を始めた時に恵からお願いしたこと。
だから、ヒロが『恵』と呼ぶ時は…

恵は体をびくりと震わせ、ヒロを見る。

「あ…」

ヒロの、優しい目。甘くとろけそうな微笑み。
それは真っ直ぐに恵だけに向けられていた。

恵は思わず、その整い過ぎる顔に見とれる。


「「「おぉっ」」」


おもむろにヒロが、恵の肩を抱き寄せ、頬にキスを落とした。


「ちょ、ちょっと、ヒロ⁈」


「皆のことは、よくわかってあげられるくせに、何で俺の事と自分の事となると、鈍くなるかな。
今、勘違いしたろ?」

恵は真っ赤になりながら口をぎゅっとつぐんで、プイと顔を背け、手元のグラスを口に運ぶ。

「あはは。
若月先生、大丈夫だよ。丹下のヤツ、先生にべた惚れだから」

「女なんか入れ食いの丹下がなぁ。先生の前じゃ形無しだな」

「ほんと。
こんな、めちゃ甘の丹下が見られるとはな。
テレビとかじゃ時代の寵児とか言われて、社長の貫禄あるのに」

「めぐみ先生も、ヒロとの事となると、自信無いんだね?」

綺羅につつかれて恵は小さくため息をつきながら、手元のグラスの残りを一気にあおる。


「だって。
私は5歳も年上の、教師しか出来ない、ただの理屈っぽい地味な女で。
釣り合わないでしょう、どう見たって」

今にも泣きそうな目で、恵はヒロを見た。

「あ、恵。そろそろ、ストップ。
飲み過ぎだ。

酔うとネガティヴないじけ虫になるんだ」

恵のグラスを取り上げて、ヒロは恵に水の入ったグラスを渡す。

「多分、普段強がって頑張っている分、酒が入るとダメなんだろうな。

ほら、水、飲んで」

恵は、ヒロに渡された水を素直に飲む。
それからコトンとヒロの肩に頭を乗せると、目をトロンとさせてからまぶたを閉じた。


「…やべぇ。
酔った先生、めっちゃ可愛いじゃん、丹下」

「…だろ?
結構、酒は強いし普段はセーブしてるけど、今日は俺もいるし、飲み過ぎたみたいだな」

「いじけ虫の、甘えん坊。
めぐみ先生の意外な一面だね〜」


恵は、自分を覗き込む綺羅の顔にハッとなる。それから、寄りかかっていたヒロから体を離した。

「あ、やだ、私、皆の前で…」

「いーの、いーの、先生。幸せそうじゃん。
マジで丹下がうらやましいぞ」

「ほんと。
あー俺も彼女欲しいなぁ」

「じゃあさ、お前、いっそ綺羅と付き合っちゃえば?」

「えー私?
まずは今カレと別れなきゃ。
どうやって、うちから追い出すかな〜」


恵の目の前で、ヒロも含めた教え子達がワイワイと盛り上がっている。

その姿が制服を着ていたあの頃と、かぶって見える。

水泳部の部室で彼らがこうしておしゃべりしているのをよく見ていた。
青春のひと時を仲間と一緒に笑いながら過ごす姿がまぶしかった。


「あ、俺、明日、早朝会議でさ。
そろそろ、帰るよ」

「じゃあ、ここでお開きにしようか。
めぐみ先生、今日は会えて嬉しかった!

…また、相談乗ってくれる?」

「もちろん。

今日は、飲み過ぎて、皆に恥ずかしいところ見られちゃったなぁ。
こんな私で良ければ、いつでも話聞くわ」

少し酔いを覚ました恵は、照れながら言った。

「恥ずかしくなんて、ないですよ。
先生だってネガティヴになることあるんだなって知って親近感湧きました。
でもそんな時はきっと丹下と一緒に乗り越えてきたんですね。そうやって家族になっていくんだなって思いました」

「先生、酔ったらめっちゃ可愛いし。
今度は俺の肩貸しますから!」

「バァカ、そんなことしたら、丹下に殺されるぞ。
ほら、丹下、目が怖いから!」

睨みをきかすヒロに恵は笑う。

「皆は、今でも私の大事な生徒だよ。
悩みがあればいつでも相談して。
またね。
さよなら!」

笑顔で再会を約束して、恵とヒロは肩を並べて歩き出す。
まだ酔いの残る恵をさりげなく支えるようにして歩くヒロ。

「丹下、変わったよな」
「自分勝手で、女は入れ食いで、何にもやる気が無くて。正直言って、金持ちのボンボンのゲスいヤツだったのにさ」
「人を好きになるってスゲェな」
「…相手がめぐみ先生だったからだよ。
人ってさ、好きな人の為ならまるで別人のようにも変われるんだね
私達も、頑張ろ!」
「そうだな」

恵とヒロの姿が人混みに消えた。
それを見届けて、皆もそれぞれの帰る所に向かって歩き出した…



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