さよなら、センセイ
「自分の為に?」

恵はニッコリと笑って頷いた。

「言ってたよね、丹下くん。泳ぐのが好きだって。
水に入ると、水音以外の余計な雑音は聞こえないし、
水音を聞きながらひたすら前に進む、水との一体感がたまらないんでしょ?」

「水との一体感。

そうだ。
そうだった。
水音が聞きたい。
あの音は、大好きだ。

…泳ぎたいな。早く飛び込みたい気分」


「男子自由形。出演者は集まってください」


係員の声に選手達が立ち上がる。コーチらは一同に“しっかり”とか、“がんばれ”とか気合いを入れて送り出していた。


「丹下広宗くん。
あなたの為の舞台よ。
水はあなたと一緒になりたくて、あなただけを待ってるわ。
思い切り、泳ぎを楽しんできて」

「センセイ…」

ヒロの顔に笑みがもどる。
恵に背中を押され、プールへと出て行った。


兄のせいで、戦うことから逃げる事ばかりしていたヒロ。期待されることは、兄に睨まれること。だから、適当にこなすことばかり。

自分の持てる力を思い切り出すなんて、
しかも、誰かの期待に応える為じゃなく、
自分の為にだなんて。


ーーワクワクするじゃないか


ヒロが姿を見せると、異様な程盛り上がった応援団が声援を送ってくる。しかしヒロはそれには応えず、ただ、自分のコースだけをみつめた。


泳ぐのは、好きだ。好きな事を思い切りやれるなんて、最高にワクワクする。


スタートの音が鳴った。

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