アスファルトに咲く


父親や母親のような年齢の先生達が多く居る中で、年若のこのは先生は年の離れたお姉さん感覚で瞬く間に生徒達の人気者になった。
それを妬むような教員達は居なかったようで、むしろ、このは先生さえも子供のように扱う教員たちばかりで困惑しつつも嬉しそうに、のびのびと指導に当たっているように思えた。

漠然とした感想になってしまうのは仕方がない。

何せ担任とはいえ、ひと月が過ぎようとしても僕はこのは先生とまともに話すことなど出来ていなかったのだから。
もちろん、授業は真面目に受けてはいたけれど、人気者の先生は休み時間の度に勢いのいい生徒達に囲まれるか、職員室に戻ってしまうものだから比較的大人しい生徒達への接点はなかなか持てずにいたのだ。
このは先生は一人一人と対峙しようと模索していたようだけれど、懐いてくれている生徒達をないがしろにも出来ず、相手をしていると授業の時間になってしまう、という悔しそうというか、なんとも言えない表情を何度か見た事がある。

僕はこのは先生が好きだったけれど、休み時間の度に押しかけるような勢いは持ち合わせておらず、席に着いたまま次の授業の準備に努めていた。
家に帰れば父親が帰ってくるまでに、慣れないながら、ご飯を作らなければならない。
宿題を悠長にしている時間がとれないのだ。
休み時間に授業の準備をしておけば、家ではイチから宿題をする必要が無い。
子供なりに得た、必要なことを先回りする知恵だ。

僕だって本当は、みんなと一緒にこのは先生と話したいと思わないことも無い。
けれど、いざ話そうとするときっと何も言えないのだろうと諦めて、ノートに鉛筆を走らせるのだ。



このことについて、悲愴に暮れることは僕の中にはない。
仕方が無いと諦めてしまえる冷淡な自分に少なからずの嫌気を覚えるくらいに。
別に自分がいい子だとか、優等生だとかぶるつもりは無い。


ただ有るのは『僕に母親はもう居ない』という事実一点。
食べなければ生きていかれない自然の摂理の中、働かなければ食べても行けないのは社会の常識だ。
食い扶持を稼ぐほど当時の僕に力があるはずもなく、働くことすら出来なかった僕は、父親が稼いでくるお金を使って日々生活をするよりほかはない。
父親まで居なくなられては一人でどうすることも出来ないと思うくらいには僕は子供で、チャーハンや野菜炒めを食べられなくない程度に作れるくらいには僕は子供ではなかった。

寂しく思ったり、グレてしまったり、そんなことよりも僕は生活をすることに必死だった。
みんなと一緒に学校生活を送ることに、必死だった。
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