ユウジン
9.
単純な作業をしていると眠気が襲う。そうかと言って集中力を要する仕事を今日はどうにもできそうになかった。大沢は両腕を上げて背筋をボキボキと鳴らして伸ばすとまた作業を開始した。
通りに面した大きな窓から燦々と入る陽光が眩しいくらいだった。大沢は作業中の手を止めてブラインドの角度を少し変えた。打ち合わせスペースの空間に満ち満ちていた光は半開きになったブラインドから筋になって床に柔らかく落ちている。穏やかな光のなかで単純な作業を繰り返すのは、色々な絵の具を掻き混ぜて黒を作る作業のように大沢の胸にとぐろを巻く影を作る。自分で作り出していく色をどうにかしようとしてまた次々と色を足してどうにもならなくなっていく。こんな仕事をしているけれど、そういや図工や美術でいつも絵画が苦手だったのだ。

スペースの出入り口でコツリと音がする。パーティションの脇に身体を半分預けるようにして湖山が立っていた。大沢は一瞬手を止めて湖山から目を逸らすのと同時にまた手を動かし始めた。それから湖山を見ずにつとめていつもと変わらぬ声で
「どうしました?」
と尋ねた。
「ここ、いい?」
湖山はパーティションから一歩踏み出し、大沢の向かいの椅子に手を掛けた。
「どぞ」
大沢は手を止めずに答える。
「昨日・・・・」
と、湖山が遠慮がちに口にする。大沢はその続きを待つように一度湖山を見て、すぐまた手元に目線を落として作業を続けた。
「何?」
続かない言葉の端に、駒を置くように大沢が尋ねると、湖山は
「あ、うん。いや。なんでもない」
と濁してしまった。
本当は分かっている。彼が何を尋ねようとしているのか。そして、なぜ、尋ねられないのかも。
── 『昨日、どこに泊まったの?』
湖山にそれを言わせないのは、大沢のせいだ。それでも、身勝手に大沢は訊けばいいのにと思う。『俺のこと一人にして、どこ行ってたんだよ?』と、自分を詰ってくれたらいいのに。湖山がけしてそんなことを言わないと分かっていてそう思った。
盗むように湖山を見やれば、湖山の目は赤い。
眠れなかったのかもしれない。
そう思うと少しだけ救われるような気がした。

持たない間を誤魔化すように湖山は大沢の作業に手を出した。咎めるように湖山を見ると苦笑いをして「俺もやる」と小さく、けれどはっきりと言い切って大沢から目を逸らした──多分それは目を逸らしたのではなかった。手元を確認しただけだ。だけど自分に疚しいことがあるから「目を逸らす」なんて思う。本当に目を逸らしたいのはこっちだった。
意地でも、と大沢は思う。口を利いてやるものか、と。黙々と作業に打ち込んで、でもやはり耐えられずに大沢は必要以上に物音を立てながら湖山に言った。
「自分の仕事は?」
「『先輩』の仕事なんか気にしなくていいんだよ」
「・・・・そ?」
そしてまた沈黙が襲う。かさこそと紙のなる音だけが響いた。電話が鳴る。事務所の電話に応えた誰かが「湖山ですね」と確認する声が聞こえた。
「電話みたいですよ」
「うん」
湖山が立ち上がりかけ、電話に応対した事務員が湖山を呼ぶ。
「ユージンさーん」
そして、電話の相手が昭栄出版の保坂編集長だと告げる声が届いた。やりかけている作業をやりきろうかどうしようかと躊躇いがちに手を止めた湖山を見やると、大沢の不穏な空気を読み取ったのか湖山は戸惑ったような表情を見せた。それをみると胸の奥から沸々と意地の悪い気持ちが湧き上がる。
「電話ですよ、ユージンさん?」
わざとらしく呼んだニックネームに、湖山はほんの一瞬間をおいてそれから噴出すように笑った。作業途中の紙を大沢に押しやりながら打ち合せスペースを出て行く。大沢がふざけたとでも思ったのだろうか。
でもきっと、それでよかったのだと思う。分かっているのだ、こんなこと、いわれもないことで嫉妬されて八つ当たりされて湖山が可哀想だと思う一方でどうしようもなく苛立つ気持ちをぶつけようもない自分が哀れでもある。
(どんな顔して電話してんだろう。)
大きなため息をついて大沢は作業中のものを片付ける。一刻も早く、この場を立ち去ることだけを考えていた。

*   *   *
それからの数週間、大沢は湖山と顔を合わせたくなくて、仕事にかこつけては湖山が寝入ったかなと思う頃に帰ったり、ちょうどタイミングよく海外出張に出るという陽子と入れ違いでそちらのマンションに帰ったりしていた。
”一番居たくない場所”しか選べない自分が哀れだと感じた。そしてそんな自分の幼稚さにほとほと嫌気がさしても来る。苛立ちは募る。そしてそれが堂々とめぐって湖山にあわせる顔はなく、帰る場所がない、という始末だった。
『奥さんもいらっしゃるんでしょ?大沢君、結婚してるって・・・・うちの若い連中が・・・・』
脳裏で蘇る保坂の声に知らず舌打ちをする。
大沢の脳内で保坂はやりたい放題だ。それは記憶と想像──もっといえば妄想の──織り成すもので、 たとえば脳内で保坂はワイシャツの腕を大仰に広げて「ユウジン!」と湖山を呼んで肩を組んだり、飲み屋の赤い椅子で肩を寄せるように、湖山の顔を覗き込んだりする。不機嫌に眉を寄せそうになる大沢に余裕綽々で話しかけて来たり、もっとひどいときは、自分のネクタイを緩めて湖山を抱きしめようとするのだった。そういうときの湖山はいつも後ろ姿で、細い肩をぎゅっと縮めている。恐々と、でも、逃げたりしていない。そしてどんな表情をしているのかも、背を向けられている大沢からは見えなかった。

あの男は、自分の知らない湖山を知っている。夢や希望に満ちて、反抗心に満ちた彼の青春で、彼がどんな風に足掻いていたのか。どんなくだらない冗談に笑い、どんな悔し涙をのんで、どんな嬉しさに笑顔を零したのか。自分は知らないけれど、あの男は知っているのだ。
もしも湖山が、あの男に口説かれたら。ずっと好きだったんだとかなんとか言われて、絆されたりしたら。一度でいいからなんて、抱きしめられたりしたら。
大沢には分かる。
人生の一時を過ごしたからというだけではなくて、大沢にはないものがあの男にはある。
それだからやはり大沢の脳内で保坂はやはりやりたい放題だ。
『僕ならそんなふうに君を困らせたりしないのに』
保坂はそう言って湖山を抱きしめる。
細い肩を。
襟足にかかった湖山の長めの髪の上からそのうなじに口づける。
大沢がするように。
だけれど、きっと、もっと手馴れていて、もっと優しいはずだ。

「もうやだ」
大沢は泣きたくなる。
ただの想像でしかない。
本当にただの想像でしかないのに。
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