ユウジン
2.
湖山優仁はスマートフォンの画面を確認して少し微笑んだ。青い海の写真。それを写した男の目に映る海を思い浮かべる。彼が目が映しているのは、その海の地平線の向こう──今、自分のいるここなのだという自信があった。たったの一言の言葉もないLINEに、彼の気持ちはちゃんと伝わってくる。目の前にいるときは惜しみなく言葉を尽くす男なのに、彼は好きだとも愛しているとも文字にしてくれたことがない。それでも離れているときはたまにこうして送られてくる写真が、彼の伝えたいすべてを語っていると湖山は思う。多分自分だって同じように、いや、それよりも、湖山はこれまで彼に自分の想いを言葉にして伝えたことがあったろうか。
(バンクーバー、か。いいな。今度一緒に行こうって言ったらあいつなんて言うかな)
それからもうひとつの通知を確認する。電話の着信通知だった。
高校の同級生だった男だ。
風がざあっと吹いて湖山をからかうように通り過ぎる。湖山しか並んでいない路線バスの停留所は坂の多い町の住宅と背の低いビルの谷間にあり午後の半端な時間の日差しは届いていなかった。無造作に抱えていたパーカーに袖を通して湖山は言葉を選んで返信しようとしてやめる。保坂の─高校時代よりは幾分皺の増えた─変わらないあの顔が思い浮かんだ。
屈託のない笑顔──というよりも「屈託のない」と思わせる笑顔。そういえば大沢もよくそんな笑い方をした。きっと、だから大沢に親しみを感じたりしたのかもしれないと今は思う。
友達が多い方ではなかった湖山にとって保坂は一番気安い友人だった。中学は別の学区だったが塾が一緒だった。高校の入学式の日掲示板の前で「同じ塾だったよな!?」と話しかけてくれたのが保坂だった。保坂はすべり止めの高校に、湖山は第一希望で入ったのだった。保坂は一年浪人して一流の私大の文学部に入ってその後出版社に就職したと聞いたのは湖山が専門学校を卒業してもう今の事務所に勤めて何年か経っていたろうと記憶している。就職して何年か頻繁に飲み会があったけれどことごとく行けなかった。このごろではそれぞれに仕事や家庭に時間をとられるせいか飲み会自体が少なくなった。それでも一年か二年に一度の飲み会に声を掛けてくれるのはいつも保坂だ。数年前に個展をやったときに年賀状の住所に案内葉書を出した。会えたらいいと思ったので週末に在場している旨を書き添えておいたけれど、ゲストノートに彼の文字を見つけただけで会場で会うことはできなかった。
この出版社に聞き覚えがあるなとは思っていた。けれどなぜか同級生に結びつけることもなく菓子折りを持って挨拶に出向いた先に保坂が出てきた時には驚いたし、なんだか妙に場違いな感じがした。仕事柄ラフな服装が多い湖山はその日紺色のコットンのジャケットを着ていたけれど朝は鏡の前で着慣れてないなと我ながら思ったこともあって気恥ずかしかった。一方保坂の方は、ワイシャツ姿がすっかり様になっていて──それもそうだろう、社会人になって10年以上経ったのだ── 湖山を案内した応接室のドアを後ろ手に閉め、湖山に椅子を勧めながら素早く緩めていたネクタイをぐっと締め直したりするのを見ると、なんだか自分は随分置いてけぼりを食ったような気になってしまった。
懐かしさ半分で思い出話を混ぜながら打ち合わせをして、今度は仕事抜きで会おうと話した。スマートフォンで連絡先のやり取りをするのに二人とも笑ってしまうほど手間取った。一回りも年の離れた一緒に挨拶に行ったアシスタントの吉岡が笑いながら教えてくれたのがもう一ヶ月も前か。このごろは時が過ぎるのが早い。
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