ユウジン

3.
到着ロビーの宅急便カウンターでスーツケースを預けて大沢は「エクスプレス」の文字を目で追いながら足早に空港を後にする。機内でうまく調整できたのだろうか、朝到着した便で目覚めもすっきりしていた。まっすぐに家に帰ろうかとも思ったが、早く顔を見たい一心で事務所に向かった。逸る気持ちを抑え、メールも打たなかったのは、彼の恋人を、湖山を驚かせようと考えてのことだった。
事務所のドアを開けると同僚で後輩の吉岡が一人でパソコンに向かっている。大沢がフォトグラファーをやることが多くなるに従い吉岡の活躍は昨今目覚しい。
「あれ、吉岡、一人?」
「あれ?大沢さん?お帰りなさい!留守番。笹野さんが足りない文房具を買いに出てます。どうでした、バンクーバー。てか、今日はもう出勤でしたっけ?」
「いや、今日は本当は午前は移動で午後は半日休みもらう予定だったけど朝定刻で着いたから寄ってみたんだ。湖山さんは・・・」
「ユージンさんなら今日は打ち合わせですよ」
「ゆ・・・?誰?」
「だから、湖山さんでしょ?ユージンさん。最近みんなそう呼んでるんですよ。なんでも高校のときのあだ名だったんですって。昭栄出版の保坂さんがそう呼ぶから、そうそう、同級生なんですって、高校の。」
「昭栄出版…ホサカ?高校の同級生…?聞いたことあったかなぁ…。── ユウジン、ねえ。──で、何でお前がそれ知ってるの?」
「大沢さんの代わりにアシに入ることがあるから、ってこの前、近くまで寄ったときに挨拶ご一緒したんですよ。」
「挨拶?」
「昭栄出版の新しい企画ですよ。写真がウチに決まったんです。」
「あぁ、それか。で、向こうさんの一人に湖山さんの同級生がいたって訳?」
「編集長って言ってましたよ。」
「ふーん。」
「まさか、今日の打ち合わせって、その昭栄出版じゃねえだろうな。」
「いや、違いますよ。打ち合わせは大沢さんが帰ってからって、この前も言ってたし。」
「でも挨拶は俺がいなくても行ったんじゃん。」
「ちょっと寄っただけですよ?そんな挨拶より海外のがいいじゃないですか。バンクーバー。都会と大自然が隣り合う町。どうでした?いいの、撮れました?」
「普通だよ。なぁ、湖山さん、今打ち合わせの最中かな。」
「だから、そうだって言ってるじゃないですか。」
「移動中かどうか、って話だよ。ったく、ホワイトボード役に立ってないし。打ち合わせの時間とかも書かないと意味なくない?──まぁ、とにかく── その・・・保坂さん?っていう人、編集長、どんな人だった?」
「どんな?うーん、そうですねえ、普通のおっさんでしたよ。お堅い出版物が多い出版社の割りには派手な色のシャツ着てたけど、でも普通のおっさん。てか、やっぱりユウジンさん、若いっすよねえ?同じ年には見えないな。」
「ユ…ふうん」
大沢は鼻を鳴らすように相槌を打って、ぼんやりとホワイトボードを眺めた。
「ただいま」とメールを打つくらいなら湖山が万が一取引先と打ち合わせの最中であったとしても、大して邪魔にならないよな、と思う。デニムの後ろポケットからスマートフォンを取り出した大沢は、その考えを少し考え直すように大きな手のひらでパタンパタンと手持ち無沙汰に回していた。
結局大沢はスマートフォンをそのままデニムのポケットにしまい、入ってきたときと同じようなさりげなさで「時差ぼけかも。帰るわ、明日な!」と事務所を後にした。
うつらうつらしながらJR線、私鉄と乗り継ぐ。たった四週間帰らなかった駅に降り立って大沢は馬鹿みたいに嬉しく思う自分に気づく。何度も何度も降りた駅のホーム。酔っ払った湖山を送り届けた日の翌朝、眠る湖山を起こさないようにそっとマンションを出てこの駅から始発に乗って自宅に帰ったことがあった。打ち上げの帰りに、ふたりで馬鹿みたいに酔っ払って迷惑そうな乗客たちの合間を縫って歩いた夜更け。重たい機材を背負って待ち合わせた日も、事故で動かない電車をふたりで待ったこともあった。それから、湖山が大沢をこの駅に下ろした忘れてはならない日のことを、大沢は幾度だって愛おしく思い出す。「大沢!」と自分を呼んだ声。呼んで、呼んでしまってから躊躇った湖山の困った顔。湖山の細い指が掴んだ自分のシャツの皺。あの時、彼の指は小刻みに震えてはいなかったろうか。
そう、あの日。何もかも、何もかもを抱え、背負い、捨て去り、受け取る覚悟を決めた日。
諦めたはずの恋を、擲(なげう)ったはずの恋を、再び手にすることの幸福感よりも、たとえばありきたりな言葉で言って運命というものがあるんだとすれば、あまりにも残酷なそれに歯噛みをする気持ちの方がずっと大きかった。それでも、湖山がいいと言ってくれるなら、背負いきれぬほどの後悔も、自分以外の誰かの人生をこの手で変えてしまったことの責任も、あるときは放り出して、あるときはすべて甘んじて受けなければならないのだろうと覚悟を決めたのだった。

改札口に向かう階段の滑り止めを踏んだスニーカーがキュッと音を立てた。大沢は昼間の静かな私鉄の駅の麗らかさのなかで、ともすれば自分を縛り付けるこの恋の裏側など、まるでこの世には存在しないものであるかのようにすっかり忘れ去っていた。その幸福感は、たとえたったひとつまみ程の小ささであったとしても、大沢にとって大事な恋の甘さだ。そのほんの少しの甘さだけでも、それすらも許されなかった日々を思えば、大沢にとってはこれ以上何を望むのかと思えるほどの贅沢さだった。
翌日宅配される予定のスーツケースから、これだけはすぐに渡したいからと取り出しておいた小さな包み紙の入った袋を大沢は今一度確かめるように胸に抱えてからまた手に提げた。袋の中で小さな包みが少し弾んだ。
昼間の改札口には、甘いシュークリームの香りが漂っている。
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