ユウジン
5.
大沢の額に落ちた重みのあるクリームは実際ポトリと音がしたように思う。
駅の中のシュークリーム屋で大沢が手土産に買ったものだった。いつも駅を使うときは朝が早いか夜が遅いかでシュークリーム屋がやっていることはまずない。珍しく昼間のエキナカにいる自分に新鮮さを覚えながら大きなシュークリームを四つほど買った。簡単な夕食を食べて、夜のニュースを見ながらシュークリームを口に運ぶ湖山の胡坐の上に大沢は頭を預けていた。いつもならそんなことをしようとすると(どうせ膝(胡坐)枕をすることになるくせに)一騒ぎする湖山だったが、その日は何も言わずに大沢の頭を預かった。
ぽとりと落ちたシュークリームに
「あ・・・」
と、二人は同時に声を出した。湖山が拭おうとして大沢の額に手を伸ばした。瞬間にその手を捕らえた。「ん?」と湖山が目顔で尋ねるより早く、大沢は悪戯に目を眇めて物を言わずに唆す。「唇で拭って?」とその目でねだる。でも湖山は分からない振りをしている。本当は分かっているくせに、と、大沢は思う。
「ねええ?」
痺れを切らして大沢が口を尖らせると、湖山は「何だよ?」と少しそっけなく答えた。湖山の胡坐の上に乗せた頭をグリグリと押し付けて無言でもう一度ねだると
「嫌だよ。そんな、バカップルみたいなこと」
湖山はぷいっと顔を背けた。
「なんだよ、バカップル上等だよ。一ヶ月も会えなかったのに。頑張ったのに。」
ちょっと拗ねた振りをしようと思っただけなのに、最後は少し本音が滲んだ。湖山は大沢を見て少し微笑む。
大沢はその顔がとても好きだった。いつも、自分を頼って欲しいと思う。自分がいつでもそばにいることを分かっていて欲しいと思う。どんなことがあったって自分だけがこの男を甘やかしてやろうと思うけれど、どうしたって追いつかない年の差のどこかに、ごくたまにこんなふうに滲んでしまう自分の不甲斐なさが情けない。苦々しく思うけれど、でも、そんな瞬間にいつも湖山はこうやって微笑む。この微笑の中に、大沢はいつも湖山の自分への愛を確かめているような気がした。
湖山は大沢の気持ちを察するようにその優しげな微笑を俄かに変化させて瓢軽に片眉を上げ、長い舌を突き出すようにして大沢の額をぺろりと舐めた。
「うぁっ」
大沢は不意を突かれて湖山の膝の上で肩を竦めた。湖山はふふふと笑って今度は大沢の鼻筋にツツツと舌を滑らせる。大沢の頭が跳ねて湖山はそれを除けるように顎を反らす。舌打ちをするようにくぐもった声を漏らした大沢はぐっと眉を寄せると、放しかけた湖山の手をぎゅっと力いっぱい握り締めた。その手首を引くと湖山の体が傾ぐ。
「痛いよ」
大沢はその訴えには耳を貸さずに引く手に更に力をこめた。傾いだ湖山の体に、勢いを預けるようにして組み敷く。無邪気さを湛えて笑っていた湖山の顔が少しずつ揺らいで変わる。最後まで留まっていた口元の笑みが息をのむ喉元に吸い込まれていく。そして
「大沢」
と、こんなときにいつもそうするように大沢の名を呼んでその口をきゅっと引いた。
「好き」 真一文字に結んだ薄い唇に口づけると吐息を漏らすように唇はほんの少し開いた。つつくようにあたった鼻をもう一度つんと当てると湖山は少し笑って、大沢はそれを封じるようにもう一度口づけた。
「・・・・ん」
それは、湖山の答えだろうか、それとも口づけの息苦しさから零れた声だろうか。確かめるように、もう一度言う。
「好き。湖山さん、好き」
「うん。」
きっと『俺も』という言葉を飲み込んで彼は答えている。そう信じている。
(好きって、言ってよ。)
照れくさそうに眉を顰める湖山の耳たぶに、戒めのように噛み付くと息を飲んだ湖山の喉がこくりと動いた。
「なあ」
唇を首筋を這い蹲らせて湖山に呼びかける。
「うん?」
「なあぁ」
「なに?」
でも、大沢はそれ以上を言葉にできない。言葉が乗らない舌先はもどかしく唇の隙間で蠢いて湖山の肌を這う。湖山の呻くような声にならない喘ぎが頭の上から聞こえる。シャツを手繰る手、ベルトを外す手、今自分が湖山を抱いているのだと、ひとつひとつを確かめるように、大沢は器用に指を動かした。男を剥くこんな動作に慣れるだけは慣れている自分をひやかしたくなる。それなのに、湖山を抱いていると実感することにいつまでも慣れなかった。
それだから、これが現実だと確かめる為に大沢は思いつける限りの現実的なことを次から次へと思い浮かべた。空港から立ち寄った事務所で聞いた些細なことを思い出す。
「ユウジンなんて呼ばれてるの、知らなかった」
「ん」
「編集長が同級生なんだって?」
「うん。」
「なんて言ったっけ?」
「ほ・・・んん」
「何?」
「ほ・・さ・・か・・・」
「だめだよ、こんなときに他の男の名前を呼んじゃあ。ほら、手、どかして。」
「そんな・・・だっ・・て、おま…えが…。・・や・・だ」
「やじゃない。」
パンツのボタンに大沢の手が掛かると湖山は必ず大沢の手を押さえる。それは、湖山としてはそうせずにはいられないだけで本当に嫌がっているわけではないのだろうと大沢は思うが、正直、何度かに一度位は、あるいは事を終えた後や一人きりで湖山との情事を思い出すとき、本当は本気で嫌がったりしているのだろうかと不安になることもあった。そもそも、自分は人と肌を重ね始めた頃からバイセクシャルだが、湖山はそうではない。男と寝るなんて大沢とこうなってからのことだ。──の、はずだ。湖山が大沢のことを好きだと思う気持ちに嘘がないとしても、性的に男と肌を合わせることに対する嫌悪感がない、とは言い切れないのかもしれない。そうしていつかこういうことを繰り返していたら、大沢に対しても嫌悪感を抱きかねないのではないか。こんなくだらないを思ってしまう自分は子供じみているだろうか。そう思いながらも拭えない不安をもてあますのは、いつも、大沢が湖山を好きすぎるからだ、と、大沢はいつも同じところに落ち着いて溜息をつく。

でも、吐息の混じる湖山の喘ぐ声もその肌の艶かしさも、嫌悪感なんて大沢の思い過ごしだよと囁いているように聞こえる。「・・・ンなわけないよな」と呟いた大沢の言葉に湖山は「なに、が?」と途切れる息遣いで尋ねた。
「なんでもないよ」
大沢の答えは湖山の一際高まった声にかき消される。

息を切らした湖山がうっすらと目を開ける。焦点の合わない目で天井を見上げてその目がゆっくりと大沢を探すのを大沢は確かめる。そしてほら、今日も、半開きの口が渇くのか、そっと舌で濡らすのは湖山のこういうときの癖のようだった。湖山の中に入ったままの大沢のモノがまた力を増す。
「んん」
猛るものをその内側に感じるのだろう、湖山がのど声を出して、大沢はこんなときの湖山の仕草や声のひとつひとつにいちいち反応する自分の素直さに我ながら感心するのだった。
「あ・・・・あ・・・だめ」
「何が?」
意地悪く尋ねる。
「いや・・・だ」
「そう?」
そして大沢は言葉少なになる自分に気づく。湖山を抱く腕に力が篭るのと反比例するように、大沢の口数は減って、それを補うように大沢の唇は湖山の体中を這い回り、言葉をのせることをやめた口寂しさを紛らわせるように湖山に噛み付いた。
「ちょっ・・・・、・・・・と・・・!」
咎めるような湖山の掠れる声が大沢を煽る。湖山が喘ぐその言葉に、必死で答えようとしているのに、なぜか声にならない。
── 「なにが『ちょっと』?『ちょっと、(止めて)』?『ちょっと、(しんどい)』?『ちょっと、(感じる)』?『ちょっと、(ズレてる)』?」
いつか、この男は自分の腕の中からすり抜けて、誰か別の男に抱かれることがあるのだろうか?自分だけが知っているはずの彼の声を、彼の肌の湿り方や、穿たれるときの彼の撓り方や、これまで誰も知らなかった彼を、自分だけが知っているはずだ。そういうことの一つ一つを、いつか、大沢は手放して、別の誰かが手に入れるのだろうか?
不意に訪れた疑問がむくむくと人型になる。会ったこともない男の影が大沢を脅かす。それは「不安」と言う名の、ただそれだけの存在のはずなのに、なぜこんなにもリアルなんだろう。
「あ、イイ・・・、お、さわ、そこ・・・イ・・・」
ぐつぐつと、大沢の中に沸いて滾る情動に黒い影が落ちる。
「どこ?」
意地悪く言って、大沢はわざと欲しいものをやらない。
── 「ほら、もう一回、強請ってみろ。俺だけがあげられるんだって、俺だけだって、言って・・・!」
「意地わ・・りぃ」
湖山が言う。
そうじゃない。
意地汚いんだ。
もっと、もっと、もっと、欲しい。
誰にも、少しも、やりたくない。
絶対。
* * *
湖山は気だるげに寝返りを打って、大きな息をひとつ吐くと、あ、と何かを思いついたらしく話し始めた。
「なぁ、会社の予定表見たんだけど、再来週?再々来週?の土曜日さ、休みじゃん?俺も休みなの。でね・・・」
喘ぎすぎた喉が少し痛むように喉に手をやる。細い首に上下する喉仏を細い指が撫ぜているのを、大沢は見ていた。
「なあって!聞いてる?」
「聞いてる。」
広告代理店や出版社の仕事が多い大沢たちの事務所の仕事は、相手先に合わせて比較的週末の休みが多いほうだが、それでもスタジオの空き状況やロケーションの都合で土曜日、日曜日に仕事が重なることもあり、休みの取り方が不定期だ。平日休みには平日休みの良さもあるが、今湖山が話しているのは、週末デートらしいことをしよう、というようなことらしかった。
人混みに辟易するような都心を、ともすれば相手を見失うのではないかと思いながら追いかける歩行者天国、なかなか進まない映画館のチケット売り場、確かにそういうのはいい。
「案外可愛いこと言うんだな。」
大沢は嬉しくなって言う。湖山は急に口を引き結んでベッドから降りた。
「湖山さん?」
「水!」
湖山が戻ってきたら、もう一度抱こう。
大沢はニヤついてしまう頬を押さえた。
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