ユウジン
6.
(どうみても、ね。)
小さく舌打ちをして大沢は眉を顰める。
(どこが「普通」だよ。いかにもじゃねえか)
大沢は機材を仕舞いながらどうしてくれようと考える。撮影の終盤になってスタジオに入ってきた男は、いかにも仕事ができそうないい男だった。顔かたちが整っている訳ではないが、自分の生き方に自信を持っている男特有の色気がある。袖の丈も胸幅もぴったりと誂えたようなワイシャツを優等生のようにすべてのボタンを留めて着込んでいるくせに、どこかに緩さが漂っている。「保坂だ、こいつだ」と、すぐに分かった。
撮影の間はスタッフの後ろで腕組みをして大人しく撮影の様子を(多分湖山を)見ていた男は撮影が終わるとまるで自身の気配をそこら中に散りばめるように大またでスタジオの中央まで歩いて来て、低いがよく通る声で
「ユウジン!」
と湖山を呼んだ。湖山は神経質そうに結んだ口を綻ばせる。大沢でさえ滅多に見ないような満面の笑みだった。
華奢な湖山の肩を組んで反対の手の拳でグリグリと湖山のこめかみを押さえる。その姿は学生服を着ていた二人を彷彿とさせ、それは大沢の苛立ちを更に募らせた。
親しさを誰に見せつけようとしているのだろうか。湖山の耳に口を寄せるようにして話す保坂に大沢はますます苛立つ。
「湖山さん、」と呼びかけた平静さを装ったはずの大沢の声は思いのほか大きくなった。
「湖山さん、帰りましょ。夕飯、今日はどこにしましょうか?」
機材を入れた鞄を荒々しく肩にかけながら立ち上がり、今すぐにこのスタジオを出られるという態をした大沢は当然という顔をして湖山に向かい合う。
「あ…」と何かを言いかけた湖山を制するように、保坂が大沢に笑顔で答えた。
「ああ、そうだ、もし良かったら君も。えっと・・・何君だっけ?」
男は鷹揚な物腰で、大沢が手にした主導権をいとも簡単に握り返す。それは大沢には不遜に見える。湖山は「誰か」のものなのか?
保坂が目の奥で嗤っているようだった。
なにかと言えば句読点のように「ユウジン!」「なぁ、ユウジン?」と挟む。先月まで出掛けいていたバンクーバーでよく聞いたすぐに「ファッキン」を挟む英語のようだ。
そして明らかにボディタッチが多すぎる。どう考えても不要なボディタッチだ。きっと癖な訳でもない。こちらを挑発しているに違いなかった。でも、もし挑発だとすれば、湖山にとっての大沢の価値というものを彼が認めたということなのだからと言い聞かせて大沢はともすれば眉根が寄りそうになるのを必死でこらえながら二人を見守った。でもそろそろ限界だ。
「そろそろ帰ります」
と、大沢は立ち上がった。背中にたくし込んだジャケットを拾い上げ袖に腕を通しながらもう歩き出す。
「え?大沢?じゃ、俺も──」
「いいですよ、湖山さんはごゆっくり。考えてみたら同級生が旧交をあたためているところにお邪魔するなんて、野暮でしたよね。じゃ、保坂さん、お誘い頂いてありがとうございました。僕、お先に失礼しますね。」
「あぁ、大沢君、なんか、ごめん。せっかくなのに思い出話をしすぎちゃったよな。ごめんな。」
「いえ、全然」
「まぁ、あまり遅くまで引っ張りまわしてもね、奥さんもいらっしゃるんでしょ?」
「え?」
「大沢君、結婚してるって聞いたけど。うちの若い連中が、”かっこいいけど結婚してるから~”って」
保坂が女の子の声色を真似して得意気に笑った。帰り支度をしようとして慌てていた湖山の手が止まった。もう十分だった。止まったままの湖山の手から目が離せずに、でも、最後の一瞬だけは保坂を睨みつけるようにして「じゃあ」と、二人に背を向けた。
「なんなの…」
胸の中だけで呟いたはずの言葉が口からついて出た。狭いエレベーターの中に大沢の言葉がぽつりと浮いている。 一番悔しいのはあの男の態度ではない。あんな男に指摘された自分の愚かしさだ。そう、湖山が誰かのものになるとして、その権利すら自分にはない。それを自分から放棄したのだ、放棄しているのだ、少なくとも今は。
帰りたくない。──「帰る?」──この世の中のどれほどの人間は「帰る場所がない」という気持ちを味わったことがあるのだろうか。たとえばこの疲弊した車両の中の何パーセントくらいが。
どこへ帰ればいいのか分からない。
まるで自分の匂いのしない新しいマンションも、むせ返るように湖山と自分の匂いがする彼の部屋も、けれどそこが「帰る」場所だとは思えなかった。
結婚前から不規則に帰ったり帰らなかったりしていたこともあり、妻は自分が家に帰らなくても何も言わなかった。最初のうちはたまに電話が掛かってきて「元気なのか」と尋ねたり週末は帰って来れるのかとか、家の用事のことで一緒に行けるかとか、新妻らしい電話が掛かってくることもあった。最近はそれすらない。もう時間の問題だ。紙だけの結婚生活に終止符を打とうと、多分どちらも思っているのに、仕事とか世間体とか煩雑さとかいろいろな理由をふたりの隙間に積み上げては見ないふりをしている。
ほとんど習い性になった帰路について、急行の止まる駅の一つ目で降りて折り返した。
── 帰る場所
たったひとつ、その場所があったことを思い出す。
向かい風のように流れ来る人の群れに逆らって歩く。すり抜けるように、器用に。
新しい地下鉄の駅の構内で人がまばらになる頃、大沢はやっとほっとする。そう、この先にある。自分の居場所。一人ひとりが孤独で、一人ひとりが埋め合わせる誰かを求めている。残酷で優しい巣穴。
そしてそこへたどり着く前に、スマートフォンの履歴を繰っていった。この前に電話したのはいつだったのか。こんなにスクロールしても届かない、そんな薄っぺらな関係がいま一番自分を縛り付けているのかと思うと馬鹿馬鹿しくて笑えた。
「陽子?」
ざわめく声が背後から聞こえる。
「珍しい。」
笑うような声で答える。この声がいいなと思ったことがあった。
「そうだよなぁ、ほんと。」
背後で笑い声が高らかになる。
「今、外?」
「うん。」
「今、平気?」
「うん、いいよ。何?」
「なぁ、俺達、別れようか…?」
勢いに任せるようにかけた電話で、こんな大事な一言を言える自分の軽々しさ。こんな自分にだってたった一つだけ確かに本気だと言える想いを抱いている。そして、この気持ちを疑いもしないのだ、自分も、そして湖山も。
沈黙の後で、彼女はふっと息を吐いて笑った。
思いもしなかった答えが、返ってくる。
「何言ってるの?別れないよ。」
(どうみても、ね。)
小さく舌打ちをして大沢は眉を顰める。
(どこが「普通」だよ。いかにもじゃねえか)
大沢は機材を仕舞いながらどうしてくれようと考える。撮影の終盤になってスタジオに入ってきた男は、いかにも仕事ができそうないい男だった。顔かたちが整っている訳ではないが、自分の生き方に自信を持っている男特有の色気がある。袖の丈も胸幅もぴったりと誂えたようなワイシャツを優等生のようにすべてのボタンを留めて着込んでいるくせに、どこかに緩さが漂っている。「保坂だ、こいつだ」と、すぐに分かった。
撮影の間はスタッフの後ろで腕組みをして大人しく撮影の様子を(多分湖山を)見ていた男は撮影が終わるとまるで自身の気配をそこら中に散りばめるように大またでスタジオの中央まで歩いて来て、低いがよく通る声で
「ユウジン!」
と湖山を呼んだ。湖山は神経質そうに結んだ口を綻ばせる。大沢でさえ滅多に見ないような満面の笑みだった。
華奢な湖山の肩を組んで反対の手の拳でグリグリと湖山のこめかみを押さえる。その姿は学生服を着ていた二人を彷彿とさせ、それは大沢の苛立ちを更に募らせた。
親しさを誰に見せつけようとしているのだろうか。湖山の耳に口を寄せるようにして話す保坂に大沢はますます苛立つ。
「湖山さん、」と呼びかけた平静さを装ったはずの大沢の声は思いのほか大きくなった。
「湖山さん、帰りましょ。夕飯、今日はどこにしましょうか?」
機材を入れた鞄を荒々しく肩にかけながら立ち上がり、今すぐにこのスタジオを出られるという態をした大沢は当然という顔をして湖山に向かい合う。
「あ…」と何かを言いかけた湖山を制するように、保坂が大沢に笑顔で答えた。
「ああ、そうだ、もし良かったら君も。えっと・・・何君だっけ?」
男は鷹揚な物腰で、大沢が手にした主導権をいとも簡単に握り返す。それは大沢には不遜に見える。湖山は「誰か」のものなのか?
保坂が目の奥で嗤っているようだった。
なにかと言えば句読点のように「ユウジン!」「なぁ、ユウジン?」と挟む。先月まで出掛けいていたバンクーバーでよく聞いたすぐに「ファッキン」を挟む英語のようだ。
そして明らかにボディタッチが多すぎる。どう考えても不要なボディタッチだ。きっと癖な訳でもない。こちらを挑発しているに違いなかった。でも、もし挑発だとすれば、湖山にとっての大沢の価値というものを彼が認めたということなのだからと言い聞かせて大沢はともすれば眉根が寄りそうになるのを必死でこらえながら二人を見守った。でもそろそろ限界だ。
「そろそろ帰ります」
と、大沢は立ち上がった。背中にたくし込んだジャケットを拾い上げ袖に腕を通しながらもう歩き出す。
「え?大沢?じゃ、俺も──」
「いいですよ、湖山さんはごゆっくり。考えてみたら同級生が旧交をあたためているところにお邪魔するなんて、野暮でしたよね。じゃ、保坂さん、お誘い頂いてありがとうございました。僕、お先に失礼しますね。」
「あぁ、大沢君、なんか、ごめん。せっかくなのに思い出話をしすぎちゃったよな。ごめんな。」
「いえ、全然」
「まぁ、あまり遅くまで引っ張りまわしてもね、奥さんもいらっしゃるんでしょ?」
「え?」
「大沢君、結婚してるって聞いたけど。うちの若い連中が、”かっこいいけど結婚してるから~”って」
保坂が女の子の声色を真似して得意気に笑った。帰り支度をしようとして慌てていた湖山の手が止まった。もう十分だった。止まったままの湖山の手から目が離せずに、でも、最後の一瞬だけは保坂を睨みつけるようにして「じゃあ」と、二人に背を向けた。
「なんなの…」
胸の中だけで呟いたはずの言葉が口からついて出た。狭いエレベーターの中に大沢の言葉がぽつりと浮いている。 一番悔しいのはあの男の態度ではない。あんな男に指摘された自分の愚かしさだ。そう、湖山が誰かのものになるとして、その権利すら自分にはない。それを自分から放棄したのだ、放棄しているのだ、少なくとも今は。
帰りたくない。──「帰る?」──この世の中のどれほどの人間は「帰る場所がない」という気持ちを味わったことがあるのだろうか。たとえばこの疲弊した車両の中の何パーセントくらいが。
どこへ帰ればいいのか分からない。
まるで自分の匂いのしない新しいマンションも、むせ返るように湖山と自分の匂いがする彼の部屋も、けれどそこが「帰る」場所だとは思えなかった。
結婚前から不規則に帰ったり帰らなかったりしていたこともあり、妻は自分が家に帰らなくても何も言わなかった。最初のうちはたまに電話が掛かってきて「元気なのか」と尋ねたり週末は帰って来れるのかとか、家の用事のことで一緒に行けるかとか、新妻らしい電話が掛かってくることもあった。最近はそれすらない。もう時間の問題だ。紙だけの結婚生活に終止符を打とうと、多分どちらも思っているのに、仕事とか世間体とか煩雑さとかいろいろな理由をふたりの隙間に積み上げては見ないふりをしている。
ほとんど習い性になった帰路について、急行の止まる駅の一つ目で降りて折り返した。
── 帰る場所
たったひとつ、その場所があったことを思い出す。
向かい風のように流れ来る人の群れに逆らって歩く。すり抜けるように、器用に。
新しい地下鉄の駅の構内で人がまばらになる頃、大沢はやっとほっとする。そう、この先にある。自分の居場所。一人ひとりが孤独で、一人ひとりが埋め合わせる誰かを求めている。残酷で優しい巣穴。
そしてそこへたどり着く前に、スマートフォンの履歴を繰っていった。この前に電話したのはいつだったのか。こんなにスクロールしても届かない、そんな薄っぺらな関係がいま一番自分を縛り付けているのかと思うと馬鹿馬鹿しくて笑えた。
「陽子?」
ざわめく声が背後から聞こえる。
「珍しい。」
笑うような声で答える。この声がいいなと思ったことがあった。
「そうだよなぁ、ほんと。」
背後で笑い声が高らかになる。
「今、外?」
「うん。」
「今、平気?」
「うん、いいよ。何?」
「なぁ、俺達、別れようか…?」
勢いに任せるようにかけた電話で、こんな大事な一言を言える自分の軽々しさ。こんな自分にだってたった一つだけ確かに本気だと言える想いを抱いている。そして、この気持ちを疑いもしないのだ、自分も、そして湖山も。
沈黙の後で、彼女はふっと息を吐いて笑った。
思いもしなかった答えが、返ってくる。
「何言ってるの?別れないよ。」