ユウジン
8.
腰を浮かしかけて、力が抜けたように湖山は椅子に腰を落とした。あの大沢の睨みつけるような目に気づいていない訳がない。それとも気づかなかったのだろうか。そういや保坂はそんなところがあった。試験ごとに廊下に高成績者が貼りだされるような進学校で保坂を知らない人はいないくらいいつだって彼の名前が上位にあった。一方保坂は誰が自分とともに上位を陣取っていても一向に気にしない性格でクラスも違う生徒から一方的にライバル視されて廊下でジロリと睨みつけられたって気になるのはいつも保坂の周りにいる自分達だけだった。
カウンターの小さな椅子から立ち上がって、保坂は背を向けて歩き出そうとした大沢に手を差し出した。握手を求められたことに気づいているのかいないのかあるいは無視を決め込んでいるのか、大沢は保坂を振り向いただけだったが、保坂はその大沢の手をほとんど掴むように取って、ぶんぶんと一振り、ふた振りして手を離した。その時に湖山の肩にほんの少し体重をかけるようにして身を乗り出していたのを「ごめん、重かった?」と労わるように肩に手をかけて小さな椅子に座りなおした保坂は湖山の目を覗き込んだ。
重かったのは、そっちじゃなくて。
『奥さんもいらっしゃるんでしょ?』
『結婚してるってきいたけど──』

「湖山?なに、ほんとに重かった?痛かった?どこが痛い?肩?」
「え?いや、平気。平気。なんだよ、気持ち悪いな。お前が優しいと気持ち悪いよ。」
茶化すように言って、湖山は保坂から目をそらした。横顔に、様子を伺う保坂の視線を感じた。気づかない振りをした。そうでなければ、今自分が抱えているいろんなものを、たやすくこの男に渡してしまいそうだった。
「変わらねぇなぁ、」
と保坂はやっと身体ごと前を向く。割烹服の若い男が板長の声に威勢よく答えていてカウンターの中で忙しく立ち働くのを目で追って、保坂は
「生、ジョッキでもうひとつ!」
とジョッキを掲げた。それから湖山のジョッキを指して「同じでいい?」と尋ねる。
「にいさん、ジョッキもうひとつね!」
まだ答えてもいないのに。湖山は「変わらないのはお前だよ」とつい笑った。
「何が?」
保坂はジョッキをぐいっと飲み干してモダンなフォルムの塗りの器に残った枝豆を手にした。ポツリポツリと口に放りながら、片腕をカウンターに預けて湖山を振り向く。そして目を細めて
「変わらないわけないか」
と言った。
そうなんだろうか?
「変わったとか、変わらない、とか。訳が分からない」
ほとんど独り言のようにつぶやいて、枝豆がひとつ、ふたつ、みっつ・・・と数えてみる。待てよ、あの殻の中にふたつこの殻のなかにはみっつ、それでこの殻には・・・そしたらこの場合、残っている枝豆はいくつってことになるんだろう。
「湖山、結婚は?」
唐突な質問に湖山はぼんやりと顔を上げた。
「ケッコン?」
「招待状ももらってないし、そんな話も聞いたことないけど、結婚、したの?それともバツがついてる?」
「ついてない、ついてない、結婚──してない。」
「俺も~!したことなぁい。」
「したことないって・・・」
湖山が笑うと、保坂も笑った。
「よくバツイチとかひどいとバツが二つくらいついてるかと思ったーとか言われるんだけど」
「あぁ、確かにね、お前は落ち着いた感じがするから。そう言われてみると高校の頃だってバツがひとつくらいついてそうな感じだった」
「ひでえなぁ。そうか、そうか、俺、そんな色っぽかったか?」
「は?なんでだよ、色っぽいなんて話、してないだろ?」
保坂は微笑みを湛えて黙った。
「はい、ジョッキふたつね」と板前特有の少し赤みのある白い腕がぬっとジョッキを差し出す。保坂と湖山はおのおの受け取って、保坂はよく冷えたジョッキを気持ちよさそうに煽った後に、
「あ、ちょっと飲んじゃったけど、乾杯しよう。『花の独身貴族に』」
とジョッキを持ち上げた。
「独身、貴族に。」
湖山も繰り返した。持ち上げたジョッキの重さ。もう飲みきれない気がする、と少し思う。
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