夢見社
「やあ」

 桂木の姿を認めたらしい彼は、一瞬警戒するようなそぶりを見せた後、「どうも」と返事をした。

「先程は話の途中で失礼したね。今度は大丈夫だ。時間もたっぷりある。君の話をよく聞かせてくれないか」
「僕の話……」

 青年は独り言のように繰り返した。

「そう、君の話。まず、君の名前を教えてくれ」

 顔を覗きこむようにして問いかけてみると、彼は眉間に皺を寄せて黙り込んだ。

「言いたくないのか?」

 努めて穏やかに話しかける。彼は小さく首を横に振った。

「分からないんです。自分の名前が」

 自身でもショックを受けている様子だった。桂木は考える。彼は意識して夢の中にいるわけではないのか? それならば何故こんなところに来られる? 彼の肉体の状態はどうなっているんだ? 疑問が後から後から湧いて出てくるが、彼がそのどれにも答えられそうにないことを桂木は悟っていた。
 自分の名前すらわからない。それなら他に何か、彼の身元の手がかりになるようなものはないだろうか。彼が考えていることでもいい。

「それでは何か他に覚えていることはないか? 何でもいい。暑いとか、寒いとか。私に会う前は、ここで何をしていたんだ?」

 青年は不安げに桂木を一瞥した。

「貴方に会うまでは、旅をしていました。どこを旅していたのかはわかりません。暗い闇がずっと続いていて、堪らなく不安でした。でも旅を続けることしかできなくて、そうしていました。時折どこかから音楽が聞こえてきたような気がした」
「音楽?」
「クラシックみたいな、ひどく退屈な曲。そんなんじゃ意味ないのに」
「意味? 何の意味だい?」

 問い返され、彼はそこで初めて自分の言葉の意味を理解したようだった。驚いたように顔を上げる。

「わかりません。自分でもどうしてそう思ったのか」

 自分の記憶を取り戻しつつあるのかもしれない、桂木はそう思い、彼の思考を邪魔しないように黙って次の反応を待った。
 青年は再び口を開く。

「僕は……僕はもっと、もっと速くて、うるさい音楽がすきなんだ。こんな曲じゃない」
「ロックとか?」桂木は尋ねた。
「そう、ロック。いや、でも少し違う。確かパソコンにまとめておいたんだ。デスクトップの左上にあるフォルダ」

 よし。桂木は頷いた。青年は間違いなく記憶を取り戻しつつある。からまった糸を解くように、ほんの少しずつ記憶を辿っていけばいい。そうすればきっと現状を生んだ原因が掴めるはずだ。そして早く事態を収拾させたい。桂木の願いはそれだけだった。
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