紫陽花のブーケ
5月~覆水盆に返らず
≪side 正嗣≫
―――美季、どこにいる?
日本を出国してほぼひと月、やっと日本に降りたった秋元の心の中は、その問いばかり繰り返している
彼の表情は淡々としているが、近しいものが見ればわかる程度には疲れと焦燥が見て取れた
昏く煌めく黒曜石の瞳はギラギラとした光を纏い、切れ上がった目元から向けられる視線は、触れれば切れそうな鋭さで、見る者の顔を青くする
整った顔立ちは面やつれしてなお、焦がれる内面を映し出して壮絶な色気を滲ませていた
そんな秋元の変貌に周囲は固まっている
だがその中で、頬を紅潮させ、潤んだ眼差しで秋元を見つめる女性がひとり
迎えに訪れた会社の人間を従えるように立つその女性―――六角(むすみ)銀行の副頭取・水島氏の長女――水島絵利華(みずしま えりか)
かつて、秋元が初めて本気で好きになった女性だった
大学に入った年の秋から院を卒業する手前まで、二人は周囲の誰もが羨む恋人同士だった
しかしそのまま一生を伴に生きるのだと信じて疑わなかった秋元を、絵利華は裏切った
相手は自分の親友兼ライバルだった、その本人から告白された
ショックはあまりに大きく、当の親友に土下座され、彼女に泣いて縋られても、何も感じることはなかった
誰も信じられなくなった秋元は、何も言わず、一言も責めることなくただ絵利華のもとを去ったのだった
そして心を閉ざし機械人間のようになっていった秋元を、見かねた大学院の教授が今の会社の会長――当時は社長――に預けた
会長は彼を自宅に住まわせ、妻とともに家族のように接して見守り続けてくれた
おかげで秋元は、徐々に自分を取り戻すことができた
すっかり立ち直り社会復帰を果たすと、恩返しをしようと今の会社に就職し、誠心誠意勤めて今がある
そんな別れ方をした相手だ
今の秋元にとって、目の前に立つ絵利華はせいぜい“きれいな人形”くらいが関の山
そんな失礼な感想すら表情に出るほどのものではない
周囲の目を引く華やかな美貌も、少しも響かない
ただ礼儀として挨拶を交わし、そのままスーツケースを引いて通り過ぎた
だから、秋元には聞こえなかった
その背中に向かい呟いた女の声を、そこに込められた執着を―――
「正嗣さん、ずっとお会いしたかった。もう誰も私達を割くことはできませんわ…」