恋のレッスンは甘い手ほどき
会社から15分ほど歩いた場所にその店はあった。
裏路地の暖簾に「おでん 玉井」と書かれた小さなお店だ。外観は昔からあるような雰囲気のお店だが、漂う出汁の美味しそうな匂いが食欲をそそる。
「ここ、凄く美味いんだ」
貴也さんは微笑むと、暖簾をくぐって店の中へ入った。
「いらっしゃい。おや、木崎先生じゃないか」
店の中はカウンター席が数席と座敷が二つのみ。会社帰りのサラリーマンがいるが混雑はしていなかった。
カウンターの中から坊主頭の60代くらいの店主が嬉しそうに声をかけてきた。
「こんばんは」
「お、べっぴんさんも連れて。彼女かい?」
「まぁ、そんなとこ」
曖昧な返事ではあるが、店主は気にした様子もなく他の客におでんを出していた。
貴也さんと奥のカウンター席に座ると、店主がビールを出してきた。
「先生はいつものでいいかい? お嬢さんは何がいい?」
「あ、えっと」
慌ててメニューを見て、大根と竹輪とこんにゃくを注文する。
店主は愛想良く「はいよ」と返事をして鍋からすくって目の前に出してくれた。
美味しそうな香りと湯気が食欲をそそる。
「ここのおでんは美味いんだ。食べてみな」
そう促されて一口食べると、思わず「美味しい!」と声が出た。
出汁がしっかり染み込んでいて、お世辞抜きで美味しかった。
「だろう? ここのおでんは抜群なんだ。美味しすぎて逆に誰にも教えたくなくなる。つまり知る人ぞ知る秘密の場所」
どこか得意げに話す貴也さんも大根を一口頬張った。
外で暖簾を見たときは、正直、秋とは行ってもまだ昼間は暑い日もあるのにおでんなんてと少し思ってしまったが、美味しいものは季節を問わず美味しいのだと感じた。
リピーターになってしまうのもわかる。
「貴也さんがこういうところに連れてきてくれるなんて意外でした」
「高級な店が良かったか?」
「いえ。そういうところに連れていかれたら、戸惑っていましたよ」
「そうか」と貴也さんはどこか嬉しそうにビールを飲む。
「もしかして初めからここに食べにくるつもりでしたか?」
ビールをお代わりする貴也さんを見て、そういえば今日は車通勤ではないのだなと思った。
もとから帰りにお酒を飲むつもりでいたのだろう。
「金曜だしな。鈴音も飲めよ」
飲みかけのビールを渡される。熱々のおでんにビール。思わず喉が鳴り、遠慮なくいただいた。
「良い飲みっぷりだな」
嬉しそうな笑顔の貴也さんに私も自然と笑顔がこぼれた。
そしておでんもお代わりをする。
箸が止まらないとはこういうことだろう。自分でも驚くほど食べてしまった。
ふうっと満腹を感じて軽く息を吐くと、貴也さんが少し赤い顔で私を見ていた。
「お前を連れて来て良かった」
「え?」
「鈴音に美味しいものを食べさせたかったって言うのもあるけど、きっと鈴音ならここを気に入ってくれると思った。俺の好きな場所を好きになってくれると思ったから連れて来たんだ」
そう言って、まるで少年のような笑顔を見せる。
自分が好きな物を相手が気に入ってくれたことが嬉しい。そんな感じだ。
「かわいい……」
私の呟きは貴也さんには幸い、聞こえなかったようだ。
帰りは電車で帰った。良い酔い冷ましとなっている。駅から近いマンションだが、散歩がてら少し遠回りして帰ることになった。
「あー気持ちいいな」
9月下旬の夜風は涼しく感じてくる。
貴也さんは緩めたネクタイとシャツの隙間から風を取り込むように襟元を引っ張っている。
スーツを着崩した姿が妙に色っぽくて、目のやりどころに困って顔を背けた。
その時、貴也さんのスマホが鳴った。
ジャケットの内ポケットから取り出してディスプレイを見て、一瞬表情が強張る。
その顔を見て、何となく私は側にいない方が良い気がして手を離そうとするが逆にしっかりと繋がれてしまった。
「貴也さん、電話……」
戸惑い気味にそう言うが、電源を落として再びしまった。
「出なくていいんですか?」
「知らない番号だったからでない」
知らない番号?
それにしては表情が一瞬変わった気がしたけど……。
内心首を傾げて、アッと思った。