恋のレッスンは甘い手ほどき


家に帰ると、貴也さんが部屋から出てくる場面と遭遇した。
ラフな服装をしているが、きっと仕事をしていたのだろう。ポキポキと肩を鳴らしていた。
玄関にいる私に気が付くと、微笑んだ。

「あぁ、おかえり」
「ただいま。仕事していたんですか?」
「いや、丁度終わったところ」

在宅で仕事をすると言っていたのは本当のようだ。
しかし、会社にいるよりも早く切り上げている。顔色もいいし、もう体調も戻って来ているのだろう。

「夕飯作りますね。少し待っていてください」

そう言ってキッチンに立つ。作り置きのおかずはあるから、主菜と味噌汁だけ作ろうと決めていた。
炊飯器のスイッチを入れたところで、貴也さんがおもむろにキッチンに入ってきた。

「なんですか? もうすぐできるんで向こうで待っていてくださいね」

お腹を空かせた子どもに言い聞かせるような言い方になりつつ、そう伝えるが貴也さんは私の顔を覗き込んでいる。

「なんですか」

今日はやたら顔を覗き込まれる日だなと思う。
すると、貴也さんは「うーん」と小さな声でうなった。なにかを考えるように顎に手を置いている。

「だから、なんですか」
「何かあった?」

腕を組みながらはっきりと言われてドキッとした。
からかっている様子もなく、真っ直ぐに見つめてきて問われる。
……本当に鋭いんだから。

「別に何も……」

誤魔化すわけではないが、貴也さんに言うことでもないだろうと思う。
しかし苦笑された。

「そうか? 顔が怖いぞ」
「失礼な。もとからこういう顔です」
「いや、いつもはもう少し柔らかいはずだ」

どういう意味よ。心の中で突っ込む。

「鈴音、何かあったのか?」

そう優しく言われて軽く頬を撫でられた。その甘い仕草にドキッとする。

「言ってみろよ」

そう言われて、どうしようか考えたがあの伝言だけは伝えておこうかと思った。

「伝言です。貴ちゃんによろしく、と」
「貴ちゃん?」

貴也さんは眉を潜めて、あぁ、と頷いた。
そう呼ぶ人物にすぐに思い当たったようだ。

「茉莉に会ったのか」
「休んだので、心配しているとのことでした」

茉莉という親し気な呼び方に再び胸がもやっとする。

「そうか。何、茉莉と話したのか」
「ええ、声をかけられて。ふたりは幼馴染なんですね」

味噌汁をかき混ぜ、料理に目線を送ることでサラッと聞けている気がした。

「あぁ、聞いたのか。子供の頃、よく遊んだんだ」
「今は経理部にいるそうで。可愛らしい人でした」
「まぁ、茉莉は美人だからな。なんだ、妬いているのか? それでそんな顔しているのか?」

貴也さんはニヤリと笑っている。
妬く? 誰が誰に?
私が驚いて目を丸くすると、わざとらしくため息をつかれた。

「一応、恋人なんだから妬いたっていいと思うぞ」
「偽の恋人は妬かないと思いますけど」
「まぁ、確かにな」

そう、妬かないはずなんだ。でもこの胸のもやもやはどういうことだろう。
茉莉さんに嫉妬しているのだろうか?
いやいや、偽の恋人の分際で妬くとはおかしい話だ。
しかし、お見合い写真のひとつに茉莉さんがあったということは、恋人役は茉莉さんでも良かったのではないだろうか?
幼馴染だし、良く知った相手だとやりやすいだろう。

「茉莉さんとお見合いしないんですか?」
「え?」

ぽろっと言葉に出てからハッとした。

「あ、いえ何でもないです」
「茉莉から聞いたのか?」

誤魔化そうとしたが、貴也さんのどこか冷めた声が問いただしてきた。

「いえ、あの……、この前部屋の床にお見合い写真が落ちているのを見てしまって」

目線を逸らしながら、テーブルに食事を並べていく。
すると、箸を並べる手をパッと掴まれた。私の手首など貴也さんの大きな手ですっぽり収まるほどだ。

「で、どう思った?」
「え?」
「お見合い写真を見て、どう思ったんだよ」
「どうって……」

特にふざける様子もなく、私の目を見ながら真っ直ぐに聞いてくる貴也さんに少し戸惑う。
どうと聞かれても、なんだかモヤモヤしたなんて言えるわけがない。そんなこと言ったら、また妬いているとか変なこと言ってくるだろうし。



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