恋のレッスンは甘い手ほどき
それでもまだ、指輪を出して見る気にはなれない。
私は帰り道、ひとり夜空を見上げながら大きく息を吐いた。
あの数ヵ月は夢だったんじゃないかと思うくらい、今は完全に前の生活に戻っている。
職場は変わったけど、仕事して漫画を借りてきては読んでときめいて……。
ほとんど毎日同じ。平凡で平和。
つまらないけど、私にはこれがちょうどよいのだ。
ときめいて、でも苦しくて……。
そんな恋愛は向いていない。
「私にはハードルが高すぎたのよ」
久々に思い出して胸がチクンとする。
苦い記憶を呼び戻してしまったせいか、この日は漫画を読めずに布団に入った。
翌日。
出勤すると、お店のオーナーが半泣きで飛び付いてきた。
オーナーは中学生の娘がいるママさんで、美人でしっかり者で優しく頼れる人だ。
そのオーナーが開口一番、「鈴音ちゃん、法律事務所で働いていたわよね!? 誰かいい弁護士いない!?」と話す。
「え、どうしたんですか?」
「旦那が浮気していたの! 私の通帳のお金も勝手に使ったみたいだし、もう許せない! 離婚してやる!」
オーナーの旦那さんって浮気ぐせあるって聞いていたけど、また浮気してたんだ。
「娘も、離婚して良いって言ってくれているし決心したの。弁護士つけて、相手の女からも慰謝料ふんどってやるわ」
なるほど、それで弁護士か。
私は少し、うーんと考えた。心当たりはあるけれど、連絡とるのは少々気まずい。
「お願い! 鈴音ちゃん」
オーナーは思いっきり頭を下げた。
そんな風にされると、断りにくいではないか。
「……知ってる弁護士がいるので、連絡してみます。でも引き受けてくれるかは分かりませんよ?」
それでもいいからと言われ、渋々スマホを取り出した。
メッセージだけ簡単に送る。
「取りあえず、知り合いの弁護士にメールしました。でも引き受けてくれるかはわかりませんからね? 大きい会社なので担当部署とかもあるでしょうし……」
「いいわ。ありがとう、鈴音ちゃん」
スマホをしまうと、オーナーはホッとしたようにお礼を言って奥へ入って行った。
すると、すぐにスマホが鳴って電話がかかってきたので慌てて出る。
「もしもし?」
『久しぶりだね。急にどうしたの』
電話の相手は不思議そうな口調でそう聞いてきた。
「急にすみません、野上さん。実は――」
私が連絡を取ったのは野上さんだった。
事情を話すと、『うーん』と少し考える様子だった。
『俺今、刑事事件を担当しているんだよね。でも知り合いが離婚弁護士しているから紹介してあげるよ。格安な割にしっかりしている所だから』
「ありがとうございます」
『今度、君のお店に知り合いの名刺とその事務所の概要を届けに行くから。オーナーに伝えておいて』
「わかりました。ありがとうございます」
断られるかもと思っていたが、野上さんがスムーズに話を進めてくれて安心した。
『元気そうで安心したよ。新しい職場でも頑張ってる?』
「はい。良い環境で働かせてもらってます。野上さんもお元気そうで良かった」
『まぁね。じゃ、また今度』
そう言って、野上さんは電話を切った。
口調はゆっくりしていたが、きっと忙しいのだろう。
オーナーにも伝えると、喜んでいた。
そして、その週末。
うちのカフェは21時で閉店なので、もう店じまいをしないとと、店の外に置いてある看板を片づけに行く。その看板にはいつもおすすめメニューを書いていた。
今日も盛況で良かったと笑みが浮かぶ。
よいしょと看板を持ち上げようとかがむと、後ろに気配を感じた。
お客さんかな?
「あ、すみません。今日はもう閉店なんです」
振り返って笑顔でそう言った私の表情が強張った。