甘い失恋
「いままでお世話になりました。
ありがとうございました」
あたまを下げると拍手が起きた。
渡された花束を受け取り、職場をあとにする。
今日、私は二年間勤めた派遣先との契約を終えた。
「大変そうだな」
めり込みそうなほどの荷物を肩にかけ、どうにかもらった花束を抱えてエレベーターを待っていたら、梅原(うめはら)課長が私と並んで立つ。
「持つよ」
くいっとシルバーの眼鏡を押し上げ、梅原課長は私の腕からトートバッグを取った。
「ありがとうございます」
「いや」
エレベーターは一階から上昇をはじめたばかりで、私のいる五階にはまだまだ到着しそうにない。
「どうやって帰るんだ?」
荷物を持ち上げ、梅原課長は苦笑いをした。
「タクシーを拾おうと思っています」
花束と手に持つ荷物を少しだけ持ち上げ、私も苦笑いを返す。
「そうか、その方がいいな。
……槇村(まきむら)がいなくなると淋しくなる。
もっと長くいてもらいたかったが、会社の方針なら仕方ない。
残念だ」
「……ありがとうございます」
社交辞令でも、梅原課長が残念がってくれたのは嬉しい。
ここでの私の仕事が、認められた気がするから。
チン、とそのうちエレベーターが到着し、梅原課長とふたりで乗り込んだ。
この時間にしては珍しく、中はふたりっきり。
「次の職場は決まったのか」
じっと、前に立つ梅原課長の後ろ姿を見ていた。
トートバッグを持つ彼の左手薬指には指環が光っている。
「あっ、はい。
一応」
「そうか、よかったな。
槇村ならどこに行っても歓迎されるだろう」
ぴんと伸びた背筋、爽やかにセットされた黒髪。
二年間、見ていた後ろ姿。
……ああ、そうか。
明日からはこんなに憧れていたこの姿を、もう見られない。
「梅原課長」
「……」
「私は梅原課長が、……好き、でした」
「……」
梅原課長からの返事はない。
つい、口をついて出た言葉を後悔した。
こんなことを言わなければきっと、きれいな想い出で終われたのに。
チン、エレベーターが一階に到着し、扉が開く。
梅原課長が無言で私の荷物を持ったまま進んでいくから、私もそのあとを追う。
会社から出て、彼はタクシーを捕まえた。
「あの」
タクシーに乗り込み、なにか言わなきゃと口を開いたものの、なにを言っていいのかわからない。
「槇村」
不意に呼ばれ、顔を上げる。
瞬間、梅原課長の唇が私の唇に――触れた。
「最初で最後の浮気だからな」
眼鏡の奥で目尻が少しだけ下がり、梅原課長はくいっと眼鏡を上げた。
ドアがバタンと閉まり、タクシーは走りだす。
「梅原、課長……」
そっと唇に触れると、涙がひとしずくつーっと落ちていく。
――それは、酷く甘い失恋でした。
【終】
ありがとうございました」
あたまを下げると拍手が起きた。
渡された花束を受け取り、職場をあとにする。
今日、私は二年間勤めた派遣先との契約を終えた。
「大変そうだな」
めり込みそうなほどの荷物を肩にかけ、どうにかもらった花束を抱えてエレベーターを待っていたら、梅原(うめはら)課長が私と並んで立つ。
「持つよ」
くいっとシルバーの眼鏡を押し上げ、梅原課長は私の腕からトートバッグを取った。
「ありがとうございます」
「いや」
エレベーターは一階から上昇をはじめたばかりで、私のいる五階にはまだまだ到着しそうにない。
「どうやって帰るんだ?」
荷物を持ち上げ、梅原課長は苦笑いをした。
「タクシーを拾おうと思っています」
花束と手に持つ荷物を少しだけ持ち上げ、私も苦笑いを返す。
「そうか、その方がいいな。
……槇村(まきむら)がいなくなると淋しくなる。
もっと長くいてもらいたかったが、会社の方針なら仕方ない。
残念だ」
「……ありがとうございます」
社交辞令でも、梅原課長が残念がってくれたのは嬉しい。
ここでの私の仕事が、認められた気がするから。
チン、とそのうちエレベーターが到着し、梅原課長とふたりで乗り込んだ。
この時間にしては珍しく、中はふたりっきり。
「次の職場は決まったのか」
じっと、前に立つ梅原課長の後ろ姿を見ていた。
トートバッグを持つ彼の左手薬指には指環が光っている。
「あっ、はい。
一応」
「そうか、よかったな。
槇村ならどこに行っても歓迎されるだろう」
ぴんと伸びた背筋、爽やかにセットされた黒髪。
二年間、見ていた後ろ姿。
……ああ、そうか。
明日からはこんなに憧れていたこの姿を、もう見られない。
「梅原課長」
「……」
「私は梅原課長が、……好き、でした」
「……」
梅原課長からの返事はない。
つい、口をついて出た言葉を後悔した。
こんなことを言わなければきっと、きれいな想い出で終われたのに。
チン、エレベーターが一階に到着し、扉が開く。
梅原課長が無言で私の荷物を持ったまま進んでいくから、私もそのあとを追う。
会社から出て、彼はタクシーを捕まえた。
「あの」
タクシーに乗り込み、なにか言わなきゃと口を開いたものの、なにを言っていいのかわからない。
「槇村」
不意に呼ばれ、顔を上げる。
瞬間、梅原課長の唇が私の唇に――触れた。
「最初で最後の浮気だからな」
眼鏡の奥で目尻が少しだけ下がり、梅原課長はくいっと眼鏡を上げた。
ドアがバタンと閉まり、タクシーは走りだす。
「梅原、課長……」
そっと唇に触れると、涙がひとしずくつーっと落ちていく。
――それは、酷く甘い失恋でした。
【終】