格上上司は初恋の味をまだ知らない。


うちの会社に、見た目は少し遊んでそうだけど優しくて仕事も出来る出来過ぎ上司がいる。




「橘部長、会議の書類が出来ました。」

「ん…よし、ありがとう。
いつも沢渡さんの資料は見易くて助かるよ。」




いくら忙しくても小まめに声をかけてくれて、息詰まってる時にはすぐに気が付いて指導してくれる。

上司としては当たり前の事でも他の上司と比べると相当な出来る人だと思う。


会社の中でも愛妻家として有名だ。奥さんは大和撫子風の黒髪美人だとか。




よく若い女の子達がお昼休みに部長の噂話に花を咲かせている。

夜遊びが凄いとか、実はゲイだとか、どこからどこまでが嘘で本当か分かったものではないけど。

仕事上の付き合いなんだから、仕事さえ出来る人なら私生活まで干渉する必要があるのかとは私個人としては思う。


勿論盗み聞きをするつもりは無かったのでそれについては聞かないフリをした。




私の名前は沢渡 杏。25歳。平々凡々148センチの小さめな平社員。


そして橘部長は、180センチ位の身長に黒髪で毛先を遊ばせている細身のタイプで、いつもスーツとネクタイのお決まりの姿だ。

20代の女性が騒ぐのも納得がいくスタイル。

それにやけに色気がある。知的な印象だけど性格はキツくない。そこがまたいいんだとか。

毎日平凡で、上司が優しくて、それだけで私は仕事が頑張れた。

だけどそれは幻想だったと、とある会議に参加していた時急に思い知らされる。




愛妻家で有名な橘部長から、思いもよらない形で聞いてしまったこと。




「はあ?結婚なんてしてる訳ないだろう。
あんなの嘘に決まってるし。」

「……!?!?!?」




これから始まる会議を前に資料を持ち込んでいたのだけれど、扉を開いた瞬間にその言葉が飛び込んで来た。

驚き過ぎた私は、手に持った資料を床にぶちまけることになる。




「沢渡さん。」

「わ、私、何も聞いていません。」




硬直する私を見て、次第にクスクスと部長の笑い声が聞こえてくる。




「君、嘘下手過ぎ。
初めてだな社員にバレたのは。」


「!?」




この人誰…?

椅子に勢い良く腰掛けると足を組んで私を見下すように視線を送る男。

今までのお堅い雰囲気がまるきり無くなって混乱する私。だってほんの数十分前まで話していた部長とは全く違う人に見えたから。

「だ、誰ですか…?」

「ああ、キャラが違う?
本当の俺はこっちだから。
沢渡さんって部長キャラ好きだったでしょ。
いつも話す時にこにこして。」




幻想もしくは幻聴と誰か言ってほしい。

彼曰く''本当の部長''は「あーあ」と言いながら私に向かって歩いて来る。




「来ないでください。」

「そう言われて来ない奴は
あまりいないと思うな。」




コツ、コツ、と足音を立ててゆっくり迫って来る部長。これまでこの人を1度も怖いと思った事はなかったけれど、今は本当に怖い。

壁まで追い詰められ、行き場を無くした私は、資料を両手で握り締めてぎゅっと目を閉じた。

するとーーーーーーー




「その顔ソソる…」

「!?」




軽く、本当に触れているかどうか分からないくらいのキスをされた。


驚きで目を見開く私を前に、間も無く深く口付ける部長。見ていろと言わんばかりに私の目を見つめたまま口の中を弄る。

リップ音が部屋に響いて頭がおかしくなりそうだった。

そのまま彼の目を見つめていられる訳もなく、ぎゅっと目を閉じて何とか逃れようと部長の胸板を叩く。




「はぁ…も、部長…っは…も…う」

「まだ駄目。」




投げ出した手も捩じ伏せられ壁に押さえつけられた。これじゃあもう抵抗できない…。

彼の唇が首筋を撫で、背筋が震えた。

後から追い討ちをかけるようにして迫って来るゾワゾワとした感覚と体の中が火照っていくのが分かる。

やっと呼吸がまともに出来るようになった私は、肩を上下に動かしながらキッと部長を睨む。




「何で…こんなことするんですか。」

「本当に馬鹿だな。
される意味が分からないのか。」

「!?」




執拗に、いくら逃げても最後は絡め取られる。

どこで怒りを買ったのか、首筋に歯を立てられてチクリと痛みが広がった。

それを何度も何度も、頸、鎖骨、胸元、首筋、シャツの襟元からギリギリ見えない位置に顔を埋める部長。




「いっ…嫌……」

「嫌…?そんなとろけた顔してよく言える。
どうして自分が口を封じられたか、
後でじっくり考えるといい。」




胸元を乱したまま私から離れる部長。温もりが離れてからやっと体の力が抜けて床にへたり込んでしまう。

そんな姿を見て笑う''男''は悪魔でしかなかった。




その日の会議に部長は現れなかった。
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