格上上司は初恋の味をまだ知らない。
気に入らない、と言いながらも私から離れた男は着ていた上着を肩にかけてくれて、数秒後にはエンジンをかける。
「ちょっと待ってください!私帰ります!」
「呑みに行くなんて誰も言っていないだろう。
家まで送るからそこでじっとしてろ。」
「……二重人格。」
会社からの近さで選んだマンションは車で5分程度で直ぐに着く。
マンションの前に車を停めると、私が出る前には扉を開けて手を引く部長。
今度は真顔だ。怒ってる様子も会社の硬派な部長の面影もない。
「沢渡。」
「何ですか。
あなたの秘密だったら誰にも言いませんよ。
''口封じ''されましたし。」
後から考えれば文字通りだった。この人は他人にバラせばこうなると私に思い知らせる為にファーストキスを奪ったんだ。
部長は私の嫌味にピクッと肩を震わせるとこちらを睨み返してくる。
「もっと素直に出来ないのか?」
「部長の前では無理です。」
「そもそも何なんですか。
どうして私に構うんです?」
本当は既婚者じゃないなんて1人でも言ってしまったら全社が大騒動になる。
だから誰にも言わないって言ってるじゃん。そう思っていた。
「大抵の女は俺が未婚だと知ると喜んだ。
喜ばなかったのは君だけだよ。沢渡杏。」
「だから何だって言うんですか?
自慢話ですか?どこにでもいるでしょ、
私みたいな女。」
「いやいない。」
苛立ちを隠せずに声をあげると即否定された。
「だから決めた。
お前を惚れさせる事にする。」
「…………………は?」
何言ってるの?この人。
「絶対惚れませんから。」
「いや、お前は絶対俺を好きになる。」
は????
「明日から覚悟しとけよ。」
そう言って部長はエンジンを吹かせて去って行った。
「絶対好きになんかならないから…」
春、まだまだ寒さが残る3月のこと。
私は本物の部長の姿を知った。