本日は性転ナリ。
『あっ、瑠衣おはよっ』

俺がぼうっとする頭のままゆっくりと目を開くと、いつもと変わらない莉結の声が俺の耳へと響く。
そして、窓の外がすっかり暗くなり照明の白い光が眩しく照らす部屋には何処からか紅茶の良い香りが漂っていた。
俺はふと顔を上げると、莉結がトレーに乗せたティーカップをテーブルへと置くところだった。
幼馴染の莉結は、勝手にお茶を淹れたり菓子を食べたりするのも昔から当たり前なのだが、何処から出して来たのか、俺が見たこともないようなお洒落なティーカップを使っている。

『どうかしたっ?』

「ん?あぁ、別になんも。そんなコップあったっけ?」

とは言ったものの、莉結の顔を…その唇を見て、ふと頭の隅にぼんやりと浮かび上がった"先程の事"は夢だったんじゃないかなんて考えていた。
衣瑠…あの時の莉結は俺をそう呼んでいた。でも、昔から俺の事を瑠衣と呼んでいる莉結がそんな事を言う筈がない。
第一、男に興味なんてない奴がそんなこと言う訳無いのだから。

『ねぇ?聞いてる?』

突然、不機嫌そうな莉結が俺の顔を覗き込むようにそう言った。

「えっ…と、ごめん。何だっけ?」

『何だっけ、じゃないでしょっ、自分から聞いといてさっ。このコップ、昔一緒に行った小学校のバザーで買ってたじゃん』

そんな事聞いたかな、なんて思いつつも俺は納得する素振りを見せた。
…確か母の日かなんかのプレゼントを莉結に選んでもらったんだっけ。
俺はそんな過去の記憶のカケラを振り払うと、先程から頭にチラついている"あの事"について莉結に聞こうと口を開いた。

「そういえばさ、莉結…って寝てないの?」

『えっ?ちょっとだけ寝たけど何で?』

「いや…何でもない」

これが俺だ…つまり、ここぞという時に結局何も出来やしないのだ。得た情報は"莉結がちょっとだけ寝た"というどうでもいい事実だけ。
そんな自分の話術の無さに落胆していると、莉結が"ふっ"と笑ってからこう言った。

『そんな事より、瑠衣さぁ、明日から学校行くんでしょっ?大丈夫なの?』

バタバタしててすっかり忘れてたけど…先生の言う通り学校だけは行かなきゃなとは思う。だけど問題は山積みのままだ。

「あぁッ…そうだ、全然大丈夫じゃないよ…莉結しか頼りにならないんだから何かあったら助けてよ?」

『えぇ?どうしよっかなぁ♪』

「いや、本当に…そこだけはふざけないで手を貸して下さい」

『ふふ、わかってるよ。それなら今日久しぶりに瑠衣んち泊まって色々と教えてあげよっか?女の子のコト♪』

「お前その言い方ッ…まぁどーせ母さんも遅くまで帰ってこないし。別に…構わないけどさ」

『じゃぁ着替え持ってくるね♪』

そう言って足早に部屋を出て行った莉結の後ろ姿を目で追うと、ふと過去の思い出が蘇る。
…莉結の家と俺の家はそこまで離れておらず、幼かった俺たちの足でも十数分で行き来出来る程の距離にあった。
俺の父さんが死んでから、母さんは仕事を理由に俺と顔を合わせる事すら少なかったし、人見知りがちな俺の性格も相まって、俺は莉結とばかり遊んでいたのだった。
境遇が似た者同士の俺たちは、いつの間にか"幼馴染"という関係を確立していて、子供の頃はよく互いの家に泊まり合っていたものだ。
しかし、成長するにつれてそういった関係も長くは続かず、俺が家に帰っても、この家の中は常に空っぽで、静まり返った家の中には俺の生活音だけが響いていた。
そんな子供に無関心な親の下で育った俺だが、よくグレなかったと思う…なんて思いつつも俺は薄々気付いていた。母さんが俺に関わらない理由は、たぶん…俺の"病気"だと。
だけど今はそんな事考えたくない。考えている暇は無いのだ。

『ただ今もっどりましたぁ♪』

大きな声と共に勢いよく部屋のドアが開き俺はハッと顔を上げた。
すると、いつの間にか部屋に戻っていた莉結が小学生の様なテンションで猫のシルエットが散りばめられたカジュアルなバッグを床へと下ろしていた。

「早っ!どんだけ急いで来たんだよ」

すると莉結が苦笑いを浮かべ、俺の事を指差して『えっ…三十分は経ってるけど…瑠衣ずっとそのまんまなの?』と俺を見つめた。

「え?あぁ…考え事」

俺は他に言葉が思い付かず、不器用に微笑んで俯く。
すると莉結が"パン"と手を叩いた。

『あっ、お風呂、借りるねっ!あ、そう
だ、折角だし一緒に入る?』

俺は耳を疑ったが、一瞬にして熱くなってしまった顔を莉結から背けると「は…はぁッ?!入る訳ねーっての!」と声を張り上げた。
しかし莉結は変わらない調子で続ける。

『いいじゃーん、昔はよく一緒に入ったんだしさ♪女同士仲良くって事で』

「昔は昔っ!まだ心は男なのっ!」

『可愛いなぁー♪"衣瑠ちゃん"は』

そんなやりとりの中の莉結の言葉に俺はふと思った。

「明日から俺は"衣瑠"…なんだよね。なんか…不安だな。うまく女らしくできるかな」

『瑠衣は大丈夫、きっと大丈夫だよ』

莉結は真剣な表情でそう答える。が…次の瞬間"プッ"と息を吹き出しクスクスと笑いだしたのだった。

「え、莉結…?」

俺は呆気に取られてぽかんと莉結の顔を見つめた。何せ俺が思うに直前の会話の中には莉結をそうさせる要素が見当たらなかったからだ。そしてその答えはすぐに返ってくる事となる。

『少しずつだけど"女の子らしく"なってきてるよねっ♪』

「えっ…嘘!?どこらへんがっ!?」

だってそんな筈ある訳もなく、莉結の悪い冗談としか思えなかった。

『えっと、喋り方とか、仕草とか、それとか…』

「もういいよ!風呂入ってこい!」

俺は莉結を追い出すように風呂へと向かわせた。
たかだか一日で…そんな訳が無い。だって…俺は男なんだ。絶対元の姿に戻るんだから。

…それから順番で風呂へと入り、段ボール箱から新品の制服や学校用品を広げると、莉結に説明を受けながら明日の準備を整えた。
女子について意外にも知らないことばかりで不安で胸が押しつぶされそうになりながらも、俺はベッドの横へと敷いた布団へと横になる。
電気を消すと青白い月明かりがカーテン越しに部屋を照らした。
なかなか眠ることができずに徐々に目が慣れていく薄暗い部屋を眺めていると、ふと月明かりを浴びたカーテンに黒いシルエットが浮かび上がった。

『ねぇ?隣…行ってもいい?』

それは莉結の姿だった。莉結はベッドから身体を起こして俺を見下ろしてそう言った。
俺は何だか恥ずかしい気もしたけど、疲れていたせいかその時は何故か"久しぶりだし別にいいよな"なんて思って、気付いた時にはこう答えていた。

「俺、女だし。そもそも幼馴染だし。来たけりゃ来いよ」

だけど…本当は、"誰かに側にいて欲しい"
、"この不安をどうにかして欲しい"…心の中ではそう思っていたんだと思う。

『えっと…じゃぁ、お邪魔します…』

「あっ、うん…どうぞ」

こうして俺と莉結は、いつぶりだろう…一枚の布団の中で背中合わせに横になったのだった。
触れるか触れないかの距離感が妙に恥ずかしく、莉結の体温も仄かに伝わってくる…
すると静かな暗闇の中、吐息にも似た声で莉結が呟いた。

『ねぇ、瑠衣は…やっぱり元に戻りたい?』

そして俺は莉結に背中を向けると、"はぁッ"と溜息を吐いてからこう呟いた。

「当たり前だろ?突然女になるなんて普通あり得ない話だし」

すると莉結は思ってもみない事を呟く。

『だよね。だけどさ、私はそのままでもいいと思うよ』

「えっ、なんで?こんな俺の事、気持ち悪く…ないの?」

すると莉結が急に声を張り上げた。

『気持ち悪くなんか無いッ!…あ、えと…そうそう、だってもともと瑠衣は女の子っぽかったし、その…さ、今の方が"昔みたいに"仲良くできるかなっ…て』

蚊の鳴くような声へと小さくなった莉結の言葉が妙に俺の心へと突き刺さる。
昔、みたいに…か。確かに、成長するにつれて性別を意識していったのか学校での会話も少しずつ減っていって、登下校くらいでしか喋る事も無くなってしまったし、昔に比べると遊ぶ回数もかなり減ってしまった。もしかしたら莉結の言う通り、またあの頃みたいに莉結との楽しかった日々を過ごすことができるかもしれない…なんて気持ちが脳裏に浮かんだ。

「そっか…ありがとう。なんか…安心した」

そう言って俺は仰向けになり、俺達の体温に温められた布団の下でそっと莉結へと手を伸ばした。

『え?』

莉結の細い指先に俺の指を重ねた。

「少しだけ。別にいいだろ?俺、女だし」

『うん…おやすみ』

「おやすみ」

すると莉結の手が俺の手を優しく包み込んだ。
"あの頃とは違う"、細くしなやかに伸びたその指の感触は"あの頃のまま"で、懐かしい甘酸っぱい感情が胸一杯に広がっていくのを感じた。人の温もりがこんなに温かいものだったなんて…俺は今まで寒いところに居たんだな…

明日から…頑張ろう。

俺は全身を包み込む春の木漏れ日に似た温かな感覚と"トクトク"と小刻みな鼓動を早めた心臓の音に誘(いざな)われるように"すぅーっ"と心地の良い世界へ吸い込まれていった。
< 7 / 10 >

この作品をシェア

pagetop