国境の光
高校の朝は早かった。誰もいない、美術部の教室で、ホルベインの透明水彩の、ウルトラマリンブルーのチューブを絞った。海に似た、青の絵の具はもう出なかった。
同じ美術部の同級生の安斎貴洋がいる。
貴洋は、パレットの中の、赤と緑の絵の具を薄めて、混ぜている。微かに、古びた部屋のような、鼻腔を付く匂いが、景子にはする。
景子は、家から持って来たかばんを、貴洋の横に置いた。

貴洋が、キャンバスの横で、頬杖を突いて、缶コーラを、ちびりちびりと飲んでいる。プルタブの手前で、静かに泡が弾けている。青の絵の具、貴洋のパレットに出来た、青いだまは、直ぐに消えて行った。

「順調」と、景子が、聞いた。
「まあまあ」と、貴洋が、言った。
美術部の、教室に、陽が射し込んでいる。
夏だ、と、景子は、思った。
そう、夏。
陽光が射し続けている。
きっと、海に出たら、とても気分が良いだろう、と思った。パレットの側で、眩暈に似た感覚がする。
セザンヌと、ゴーギャンの画集が、置かれている。急に、貴洋が、口を開いた。
「三国さん?」と、貴洋が言った。
「うん」と、景子が、筆先を水で濡らしながら言った。
「夏祭り行くかい?」と、貴洋が、言った。
「行くわ、必ず」と、景子が、言った。
「それは良いね」と貴洋が、笑った。「先生来ないね。ちょっと外に出てみない? ん、教室の外だけど……」と貴洋が言い、景子の冷たく細い手を、引く。

やはり海が一望できた。あの日と同じように、青い銀色の海に、船が行き帰りを繰り返している。波はとても穏やかだった。貴洋が急に笑う。
「窓辺越しも良いね」と良い、貴洋がまた笑う。
「夏祭り」
「ああ……」
貴洋が頬を撫でながら、頷いた。
「今野さんがね、焼きそばを焼くんだって」と、景子が言う。「誰だっけ? 今野さん……」貴洋が言った。
「近所の今野さん。近所のおじさんだけど」と景子が、口ごもって言った。「そりゃ良いや」と、貴洋が言う。
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