ぜ、ん、ま、い、と、あ、た、し

どれくらいの間そうしていたのか。漠然としていて自分でもはっきりしない。

涙の跡がすっかり乾き、肌がピンと突っ張る感じがするのに、充分なだけの時間は経っていた。

不意に耳元でブウンと鈍い音がした。

必死に目玉をその方向に向けようとする。するとその音源は鼻先十センチの距離で止まった。

寄り目にすると胴体は黒く、お尻だけが黄色い蜂がいるではないか。

空中に浮かんだまま、それはあたしの鼻に留まろうか、留まるまいか迷っているようだった。
刺される!と思った。

それで咄嗟に手をワイパーのように振った。

びっくりした蜂はほうほうの体で頭上を越えてどこかに飛び去った。

鼻が腫れ上がる危機を回避し、あたしは「ふー」と安堵の鼻息を吐く。

空を見ていて思い出した。

さっき手で蜂を追い払った気がする。あたしは瞬きを連打した。まさかと疑った。

でもやってみる価値はあるかなとも考え直す。試すだけなら無料だ。

さして大きな期待もせずに、右手を挙げてみようと試みた。

いとも簡単に出来た。今まで0.1ミリも動かせなかった右手が目の前にあった。

本当に自分の手だろうか。これは怪しい。

その手を顔の方に近づけ、頬に触れてみた。感覚が残されていた頬に、手の温もりが伝わる。

どきっとした。恐る恐る右手で自分の顔面を撫で回す。手のひらの方にも、こじんまりとした鼻柱の手応えがある。

嘘だと思った。


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