カタルシス
 薄暗い部屋の真ん中に、シングルサイズのベッドが一台置かれ、全裸の男が胎児のような姿勢で横たわっている――この部屋は角部屋で窓は東向きと南向きの二面あるが、どちらも学校の音楽室で見かけるような厚く黒い防音カーテンに覆われ、外からの光は遮られている。明かりと言えばフローリングの床にベッド以外では唯一の家具(ピアノは置いていない)である、球形のライトが置かれ、あたかも夜の海に浮かぶおぼろげな月のように、優しく暖かな光を放っている。

 眠っていたのか、気を失っていたのか、とにかく男は目を覚ました。彼はゆっくりと起き上がり、辺りを見回すと、暗闇の中ということもあるが、すべてがぼやけてはっきりと見えずにいた。だが見覚えのない場所だということがわかり、急いでベッドから立ち上がると、突然、激しい頭痛に襲われた。彼はもがき苦しみ、再びベッドの上に倒れこみ、転げ回った――実際には短い間のことだったが、男には時間の経過がまるで粘着性のある液体がねっとりとこぼれ落ちていくみたいに感じられた。

痛みが和らいでくると、それまで淀んでいた瞳の奥にじんわりと光が戻ってきた。         

「俺は、誰なんだ?」

男の怯えた声が夜の海に沈んだ。

 愛華楼は横浜中華街の東側入口、朝陽門から中華街大通りを西へ向かい、中山路を左に折れ、少し入ったところにある古びた中華料理屋だ。店の外観はお世辞にもきれいとは言えず、一見すると営業しているのか疑わしくなるほどだ。だが、こういう店には往往にしてある話だが味の評判は意外に良く、常連客には著名人や政治家などもいる、知る人ぞ知るといった隠れた名店だ。  

店の横にある狭い路地に面したドアが開き、中から両手にごみ袋を抱えた調理服姿の、大きな身体をした中年の男が姿を現す。彼は両手のごみを放り投げようとしたが、ごみ捨て場の山の中に、大の字に眠る女性がいることに気がついた――まるで場違いな彼女は人形のような可愛らしい顔をしたポニーテールの女性で、背もあまり高くなく、どちらかというと華奢な感じのその姿はまさに少女のようだった。

彼は彼女を見ると、ため息を一つ落とし、ゴミを脇に置くと、そばに寄った。

「なんだよ、愛ちゃん。また酔っぱらってこんなところで寝ているのか」彼は叫んだ。「ほら、起きて。風邪ひいちゃうよ」

「誰? ていうか、ここはどこ? 私は誰?」

目覚めた彼女はまぶたをこすりながら、彼の顔に焦点を合わせるように大きくてクリクリした目を細めながら、言った。

 川崎駅前、本町のラブホテル『アクエリアス』の前は、深夜でしかも雨が降っているというのに、警官と報道人と野次馬でごったがえしていた。このホテルの三階の一室で事件は発生した――カップルで休憩に入った客の一人がベッドの上で胸をナイフで刺され、死亡したのだ。

 鑑識員たちがせわしく動き回る殺害現場の部屋の窓際で、一人の女性刑事がじっと立ったまま、外の雨を見つめている。さながら彼女だけが時間の流れの外側にいるかのようだった。

彼女に鑑識員の一人がビニール袋に入った【Achiever】と記された血まみれのカードを差し出した。

「月乃警部、これを」

 女性刑事はそれには答えず、あいかわらず窓に顔を向けている――彼女は腰まで届きそうな長く艶のある黒髪に透き通るような白い肌を持ち、まるでスーパーモデルのような体型で、身長は百七十八センチあり、足も長い。顔立ちは西洋人のように鼻が高く、大きく切れ長の瞳はどこか冷淡な感じが漂ういわゆるクールビューティーだ。さらに彼女の優れているのは容姿だけではなく、三十二歳という若さで警部――国家公務員採用試験一種に合格し、警察庁警部補から、交番や警察大学校での研修を経て、最速で昇任している、ということだ。 

「雨が激しくなってきた」

遠い目をした彼女がつぶやいた。

「え? 大丈夫ですか、警部」

鑑識員が心配そうに言った。

「例のカードね」

彼女はようやく我に返ったような表情を見せ、袋を受け取った。

「あ、はい。詳しく調べてみないとわかりませんが、おそらくこれまでと同様の物かと」

 鑑識員が去ると、彼女は再び窓の向こうに降りしきる雨を見つめた。

「誰かが泣いているのかしら。涙雨。すぐには止みそうもないわね」

そう言うと、彼女は無意識とはいえ自分自身の妙に芝居じみた言い回しに気がついて、苦笑した。

「あら、金ちゃんじゃない。何?」

愛華楼のゴミ捨て場で目を覚ました愛は自分を見下ろす、太った中年男に向かって言った。

「何? じゃないよ。嫁入り前の娘がみっともない」

あきれ顔の金太郎が答える。

「あれ、またやっちゃったんだ、私」

彼女は辺りを見回し、自分の状況を理解すると照れくさそうに笑った。

「ほら、立って」

彼女に手を差し伸べる金太郎。愛は差し出されたその太い腕に窮屈そうに巻かれた腕時計を見つめた――針は夜の八時半を指している。それから、「ヤバイ」彼女はそう叫びながら、立ち上がり、酔い潰れていたことが、嘘に思えるほどしっかりとした足取りで、その場から走り出していった。

「オイ」金太郎が叫んだ。「一体、どうしちゃったんだよ」

 見覚えのない薄暗い部屋の中で記憶を無くした全裸の男はそこにいたたまれず、ドアを探し隣の部屋に移ると、急に目の前が明るくなり――夜ではなかった。立ちくらみして倒れそうになった。

目が慣れてくると、その部屋も六畳ほどの洋室で大きなガラス窓があり、外にバルコニーが見えた。それともう一枚のドアがあった。床は同じくフローリングでやはり家具も何も無い部屋だったが、壁にかかる鏡を見つけると、彼はすがるように駆け寄った。一瞬、鏡に映る姿にたじろいだ――スキンヘッドで、目鼻立ちの整った美しい顔。その顔にまったくの見覚えが無かったのだ。

「俺は、俺は誰なんだ?」

彼は涙を流し、顔を伏せると、足許に数枚のカードが散らばっていることに気がついた。

「何だ?」

拾い上げたカードにはアルファベットの文字が記してあった。彼は訝しげな表情で、カードを裏にすると、「あ」突然、声をあげ、カードを放り投げた。床に落ちたカードの裏側には真っ赤な血の雫が、まるで毛細血管がそのまま張り付いたかのような模様を描いていた。

 息を切らし、愛が駆け込んだ教会はちょうど今、聖書と祈りの会が終り、敬虔な信者たちがぞろぞろと教会を後にするところだった。山下公園の近くに建つ、この由緒あるプロテスタントの教会では毎週水曜日の夜に熱心な信者が集まり、聖書を学び、神に祈りを捧げている。   

愛は胸のところで小さく十字を切ると、中央の通路を祭壇へと向かった。

「やあ、愛ちゃん。久しぶりですね」

彼女に気づいた牧師が笑顔で迎える。

「こんばんは。上野牧師」

彼女はバツの悪い顔をした。

 愛はクリスチャンの母親に連れられ、幼い時から、姉の恵理と一緒にこの教会へは幾度となく足を運んでいた。神山恵理と愛は歳が二つ違いのとても仲のいい姉妹だった。外見がよく似ていたので、しばしば双子に間違われることもあった。しかし、性格はまったく逆で、普段はおっとりしているが、実は内面はしっかりしている恵理といつも元気いっぱいで何事にも積極的だが、本当は小心者なところがあり、姉に甘えてばかりの妹であった。  

二人の父親は恵理が五歳、愛が三歳のときに交通事故で亡くなり、父親というものをよく知らない愛は自分でも気づかぬうちに、牧師になんとなく自分が思い描く父親のイメージを重ねていた。そのためか幼い時より、いつも悩み事があると、何でも牧師に相談してきた。特に三年前、恵理が大学二年、愛が高三の夏にそれまで再婚もせず、細腕一つで、二人を育ててくれた母親が心臓麻痺を起こし、いわゆる突然死してからは、頼れる親戚縁者もいなかった姉妹にとって、牧師の存在は精神的な支えであった。二人は週末や休みの日にはよく教会の催しものなどの手伝いをするようになった。母親が亡くなってから恵理はすぐに大学を辞め、働きだし、愛も高校卒業と同時に働き始めた。それから、二人は力を合わせ、それほど裕福な暮らしではなかったが、姉妹楽しく幸せにやってきた。   

だが、一年前に恵理が突然、ビルの屋上から転落死した。それまでの幸せが、一瞬にして崩れ、天涯孤独となった愛の悲しみは深く、涙が枯れるまで泣き続けると、それまで飲んだこともなかった酒を浴びるほど飲むようになり、恵理の葬式の後は、ほとんど教会にはよりつかなくなっていた。

  白を基調としたモダン・ゴシック調の重厚なたたずまいをみせる礼拝堂の長椅子に愛と牧師は並んで腰かけた。

「そうでしたね。今日は恵理さんの誕生日でした」

「うん。お姉ちゃん、いつもここにきて神様に幸せを祈っていた。ここからは私たちの声が必ず神様に届くって……」

「恵理さんにはなんというか不思議な魅力があって、周りにいる人みんなを笑顔にしてくれました。まさに天使のようでした」

「そのお姉ちゃんがどうして――」

彼女は顔を伏せ、泣き始めた。

「私にも……わかりません。ただ、これだけは信じています。恵理さんとご両親はもう苦しむことや悲しむことのない永遠のやすらぎの場所から、愛ちゃんの幸せをこれからずっと見守ってくれていると」

 顔を上げ、牧師を見つめた彼女は今年で還暦を迎える彼の顔にいつの間にか皺が増えていたことに気がついた。そして、いつも笑顔を絶やさないその目尻に刻まれた深い皺にあらためて彼のやさしさを感じ、あたたかな気持ちになった。彼女は涙をふき、笑顔をみせた。

「ありがとう。そうだよね。お姉ちゃんきっと見ていてくれるよね。よし、頑張るぞ。お姉ちゃん、私が必ず犯人を見つけてみせるから、天国から応援してね」

「愛ちゃん、危険なことはよして下さい。恵理さんはそんなこと望んではいないと思いますよ」

「大丈夫だよ。心配しないで。無茶はしないから」

彼女は心の中で、嘘をついたことを神と牧師に謝罪した。

 神奈川県警、特別広域捜査班は連続殺人などの凶悪な犯行を県内五十四ある警察署の管轄を飛び越え、自由な裁量で捜査し、また情報もすべて共有できる、縦割り社会の警察組織にあっては非常に画期的な、ある意味実験的な側面を持つ、特別な捜査チームだ。チーム名は一般に英語名の《SPECIAL SEARCH CONDUCTED OVER WIDE AREA UNIT》の頭文字の一部を取って《SOWA》と呼ばれる。《SOWA》は横浜市中区海岸通にある神奈川県警本部に設置されている。 

 《SOWA》のオフィスの隅にある自動販売機の前、白い丸テーブルが二つ並べて置かれている休憩スペースに三人の刑事が徹夜明けで、眠たげな表情を浮かべながら、コーヒーを啜っている。

いわゆるベテラン刑事といった風貌の川島刑事は、五十九歳で独身。現場捜査にこだわっているため、昇進試験は一度も受けたことが無い。性格は生真面目で実直。外見は年の割に筋肉の衰えも無く、まるでボディビルダーのような体つきで強面だが、人の面倒見がよく、後輩たちから慕われている職人肌の刑事だ。一方、チーム内で若手と呼ばれる、二十代後半の石本とチャン。二人はコンビで行動することが多い。若者らしい熱を帯びた正義感と行動力がある刑事たちだ。石本は来年で三十路を迎える長身で細身の、少し調子がいい感じの男で、対照的に一年後輩の日本人と中国人のハーフであるチャンは背が低く、筋肉質のいい身体をした少し生真面目な男だ。

 早朝のため、徹夜した三人以外、オフィスに人はいない。

「指紋、掌紋一つ、髪の毛一本残さず、目撃者もいない完全犯罪」チャンが一人ごちるように言った。「唯一の手がかりは現場に残される謎の英単語が記されたカードか……」

「しかし、そのカードというのがご丁寧によく出回っているありふれた紙とインクを使ってやがる」すかさず石本がぼやく。「凶器は今のところ発見されていないが、傷口からいって、それもよくありふれた刃物を使っているみたいだし、そうだ、赤外線で取れた足紋のスニーカーの跡を見ただろう、あれだってそうだ、量産品を選んでいる。抜かりなく、細心の注意を怠らない、まったく敵ながら恐れいるよ」

「感心している場合じゃないですよ。それに、手がかりになるのは、やはりカードに記されたあの英単語の方ですよ」

「まあな」

「最初の犠牲者、中尾政之さんの殺害現場にあったカードの単語は【Refomer】意味は“改革者”です」

「ああ……確かにそのガイシャは市民オンブズマンで、彼が中心となり開かれた、公共事業の入札に関しての市民フォーラムが、現在の横浜市の入札制度の改革につながったらしいからな」

川島が意味を補填するように言った。

「ええ、で次の被害者、神山恵理さんの現場にあったカードの単語は【Supporter】こっちは“支援者”の意味で……」

「それは」今度は石本が後を引き取った。「彼女はクリスチャンで、山下公園の近くの教会のサポーターをしていた」

「そう。そして今日発見された菊井一馬さんの現場にあったのが、【Achiever】のカード。これの意味は“成し遂げる”ですけど、彼のブログを見たら、去年の暮れからダイエットをしていて、十二キロの減量に成功したとありました」

「しかし、いくら単語の意味とガイシャの関係がわかったところで、彼らの繋がりはまったく見えてこないよな」

石本が再びぼやいた。

「馬鹿野郎、そんな簡単に白旗揚げるんじゃないよ」

川島が孫の手で、彼の頭を小突く。

「だって、そんなこと言ったってわかんないですもん。大体、川さんの方はどうなんですか? 何かわかったんですか?」

「いや」

「なんじゃ、そりゃ」

「一番謎なのはその動機だ。ガイシャ同士の接点の無さからいって、怨恨の線は薄い。また、事件の綿密な計画性からいって、精神異常者による通り魔的な無差別殺人とも違う。だったら、一体奴は、何を目的に殺しを続けているんだ?」

「それはまだわからないけど、ホシは我々に強烈なアピールをしているわ。この一連の殺しすべてが奴のメッセージなのよ」

――背後から声がする。

「誰かと思ったら、瞳ちゃんか」

振り返った川島が言った。

「あ、月乃警部。お疲れ様です」

チャンが頭を下げると、石本もそれに倣った。

「我々の高度な科学捜査の裏をかいてこれだけのことをやり遂げているのよ。そこには奴の強い意志を、ううん、思いを感じるの。それが、憎悪なのか執念なのかはわからないけれど。奴はカードを使って、我々に何かを伝えようとしている。一見、被害者同士に接点は無いけれど、恐らくそれは違うわね。必ず何かしらの繋がりがあるはずだわ」

「でも班長」石本が合流した瞳に異を唱える。「ガイシャたちについての情報はその生い立ちから犯罪歴の有無、過去に経験した事件事故、病歴に至るまで、また家族、友人知人など交友関係についてもすべて洗い出しましたが、彼らに接点らしいものは何一つありませんでしたよ」

「いや、絶対にあるはずよ。何かを見落としているのよ」

確信があるかのように、彼女は力強く言った。


 愛華楼はまるで有名な築地の卵焼きのようにきれいな長方形の建物で、通りに面して客用の入口があり、つづいてホールがあり、その後方に厨房。さらにその奥が事務所やロッカールームとなっている――そのロッカー室前の通路の壁に、並んで寄りかかる愛と金太郎。

「まったく、びっくりしたよ。まあ酔っぱらって、そこら辺の道端で寝ているのは全然珍しくないけど。ふらついていたと思ったら、急にシャキッとしちゃって、どっかすっ飛んでいっちまったからさあ。……そうか、昨日が恵理ちゃんの誕生日だったか」

「うん」

愛はさびしげな表情で小さくうなずいた。

「愛ちゃん、覚えているか? 小さい頃、二人の誕生日には必ず店に来て大好きなエビチリ食べて、エビの大きさでいつも喧嘩してさ。杏仁豆腐が出てくる頃にはすっかり仲直りしていて。ほんと可愛かったなあ」

「あの頃は毎日が楽しくって。私の人生で一番幸せな時だったかもしれない。私、独りになっちゃった……」

「そんなこと無いだろう。俺だっているし、たくさん友達だっているじゃないか。おまえさんのまん丸くて太陽みたいな笑顔にはみんな救われているんだ。だから、みんないつも愛ちゃんのことは心配しているし、幸せでいて欲しいって本気で思っているんだよ」

「ありがとう、金ちゃん。そうだよね、私独りじゃないよね。ごめんね、情けないこと言っちゃって」

「そうだよ。愛ちゃんらしくないぜ」

「そういえば、私最近、本気で笑ったことなんて無かった気がする。金ちゃん、私頑張るよ。そして、笑顔を取り戻すためにも、やっぱり犯人をこの手で捕まえてやる。私は必ずそいつを見つけ出して、罪を償わせてやるわ」

「おいおい、まだ探偵ごっこ続けるつもりなのか? 危ないから止めなって言っているだろう。気持ちはわかるけど、そういうのは警察に任せておくしかないんだよ」

「大丈夫だよ。慎重に行動するし、いざとなればこれがあるし」

彼女はピンク色のバッグパックから徐にテーザーガンを取り出した。

「そんな物、何考えているんだよ?」

声が上擦る金太郎。

「大丈夫だって。うまいことやってみせるから。それじゃ、これから行くとこあるから、またね」

彼女はそう言うと、彼の頬に軽いキスをしてその場から去っていった。

廊下の先で小さくなる背中を見送りながら、「危ないことするんじゃないぞ」

金太郎が小さく叫んだ。

 見知らぬマンションの一室で、身に覚えのない血のついた謎の数枚のカードが足許に散らばる異様な状況で、記憶を失くした男はあまりの恐ろしさに自分が発狂してしまうのではないかと身を震わせたが、なぜか急速に冷静さを取り戻していることに驚きを覚えた。自分は一体、何者なんだ? 鏡に映る見知らぬ顔に問いかけるが、やはり何も思い出せない。そのとき彼はふいに自分が全裸であることに気がついた。

 服を探そうと、もう一枚のドアを開けると、そこはダイニングキッチンで、その奥にもう一つの部屋が見えた。和室で広さは四畳半ぐらいだが、それまでの部屋とは違い、この部屋にはいくつかの家具があった。窓際に木製のPCデスクにノートパソコン、中央には座椅子が一つ、その正面にスチール製の台の上に置かれた小型のテレビ、ドアのそばにワードローブ型で、やや小振りのスチール製の洋服ダンスがあった。彼はとりあえず、タンスから引っ張り出した服――ネイビーのスウェット・パーカーに色落ちしたブルーのデニムを適当に着ると、パソコンの前に行き、電源を入れた。すると、彼は自分がコンピューターに慣れている感覚を覚えた。パソコンが起動し、ディスプレイにはいくつかの場所の名前と思われるものが、日付とともに横書きで縦に並べて記されている表のようなものが映し出された。何のことかわからず、他に何か自分についての情報がないかと、パソコンを操作し、色々とデータを引き出してみたが、それらしい情報は何一つ得ることができなかった。彼はあきらめ、最初に見たリストに従い、その場所に順番に行ってみることにした。

「ここに行けば、何かを思い出せるかもしれない」

 外へ出ることに多少のためらいはあったが、意を決して彼は部屋を後にした。

 とりあえず、マンションを出たが、そこがどこなのかはわからなかったので、適当に歩いて、まず自分がいる場所がどこなのかを確認することにした。人に聞こうとも思ったが、なぜか怖くなってしまいそれは止めることにした。

歩き出すと、彼はすぐに猛烈な暑さを感じた。昼時で太陽は真上にあり、容赦なくその身からあふれ出る光の束を矢のごとく降り注いでいる。気がつけば、まわりを行きかう人たちはみんな半袖を着ていた。どうやら季節は夏らしい。

と。

いきなり目の前に海が現れた。彼はすぐにそれが横浜の海だとわかった。そして、急速に自分がこの場所に土地勘があることを思い出してきた。

彼は先ほどのいくつかの場所が記されたリストを書き写したメモを探して、デニムの後ろポケットに手をやると、厚みのある革の黒い長財布があった。財布のなかには一万円札が二、三十枚入っていた。驚いてあわててポケットにそれを戻し、深呼吸をして今度はデニムの前ポケットを調べると、メモはそこにあった。

メモの一番目の場所は大和市だった。遠いなと彼は思った。すると、二番目に書いてある場所はそこからすぐの山下町だった。彼はとりあえずその場所に行くことにした。

 産業貿易センタービルのそばにある九龍ビルは十六階建てのオフィスビルだ。

彼はガラス張りのビルの入り口の前で立ち止まり、屋上を見上げた。

「ここに一体何が?」

突然、フラッシュバック――屋上から見下ろす夜の街が頭の中をよぎる。

「なんなんだ?」

男は叫びそうになるが、なんとか気を静め、ビルの中へと入った。

その様子を少し離れた場所から中年の男が見つめていた――ハンチング帽を目深に被り、黒いサングラスをかけている。

 記憶を失くした男は一階の吹き抜けのエントランスに入ると、今度はめまいに襲われ、ふらふらと二、三歩進んだところで前方に倒れこむが、両腕を掴まれ、抱きかかえるように身体を起こされる。彼を助けたのはちょうどその場に居合わせた愛だった。

「大丈夫ですか?」

彼女は男の顔を覗き込んだ。

「ちょっと、めまいがして。すいません。でも、もう大丈夫です」

「本当に? 顔色悪いですよ。お医者さんに診てもらった方がいいんじゃないですか?」

「いや、大丈夫です。ありがとう。ところで、どこかにトイレはありませんか?」

「トイレ? あります。あのご案内します」

「いや、そこまでは。大丈夫ですから、本当に」

「すぐそこです。ちょうど私も行こうと思っていたし。さあ、行きましょう」

彼女はそう言うと、男に寄り添って、トイレまで連れて行った。

 彼は彼女に礼を言って別れ、トイレに入ると、手洗い場へと向かい、鏡をのぞきこんだ。すると、急にまた激しい頭痛に襲われ、その場で気を失ってしまった――しばらくして意識を取り戻すと、男は同じ場所に立っていたが、目の前の鏡には誰かの息で曇らせた面にメッセージが残されていた――ハルコに気をつけて   

 彼は驚き周りを見回すが、誰もいない。

「ハルコ?」

彼は確かめるように、その聞き覚えのない名前を口にした。

 ダークブラウンのつや消しのデザインウッドを使用した壁パネルに囲まれた高級感のあるバス・ルームでシャワーを浴びる女性の後ろ姿。髪型は前髪とサイドとえり足が同じ長さに切りそろえてあるショート・ボブで色はベージュ。左肩にホクロが三つ、トライアングル状に並んでいる。

シャワーを終え、タオルを身体に巻きつけた彼女は浴室からリビング・ルームへと移動する。女は濡れた髪を首にかけたタオルで拭きながら、ダイニング・コーナーに向かい、冷蔵庫から冷えたシャンパンを取り出し、それをグラスに注ぐと、今度はリビングの奥にある机の方へと向かった。

机の上には新聞の記事を切り抜いて集めたスクラップブックが置いてある。すぐそばの壁にもたくさんの記事や写真などが貼り付けてある。彼女はそのうちの一枚の写真――外人の男が写っている。を片手で撫でるように触れながら、グラスのシャンパンを一気に飲み干す。

「あなたの魂は消えない。だって、あなたは今でも私の中で生きているのだから」

グラスの縁に指を滑らせ、彼女は不敵な笑みを浮かべた。

 男はトイレのメッセージにあったハルコという名前を手がかりに何か思い出せないかと何度もその名を声に出してみたが、灰皿でもみ消したタバコの残り火のように記憶の隅に何かがくすぶっているような感じがしただけで、それもすぐに消えてしまった。それから彼はメッセージを残していった人物について色々と思いをめぐらせた。誰かが自分のことを助けてくれているのだろうか? だとしたら、一体誰が? 何のために? 男はこのビルにはまだ何かあると感じ、フラッシュバックで見た屋上に行ってみることにした。

エレベーターが屋上に着き、彼は外に出ると再び、フラッシュバックに襲われる――屋上から女性が突き落とされて、仰向けに落ちていくその女性の瞳の中にもう一人の女性の影が映る。

「ああ――」

彼はたまらず絶叫した。

 具合が悪そうな男をトイレまで案内して、そこで別れたが、愛はその後も彼のことが気になっていた。だが、彼は放っておいて欲しいようだったし、また何かあれば他の人だってこのビルにはたくさんいるのだから、心配することはないと自分に言い聞かせ、いつものように屋上へと向かった――姉がこのビルの屋上から、何者かに突き落とされて転落死してから間もなく一年。犯人は謎の連続殺人犯で、恵理が二番目の犠牲者だが、まだ捕まってはいない。愛は容疑者や捜査の進展について、警察に詳しい説明を何度も求めたが、捜査上の秘密なので明かせない、我々を信用して任せてほしいとの一点張りだった。だが、いつまで経っても事件が解決しないことに業を煮やした彼女は自分で真相を突き止めることに決めたのだ。しかし、実のところ自分なりに目撃者がいないかこの数ヶ月、このビルを利用するありとあらゆる人や周りのビルで働く人などに聞き込みをして回ったが、時間が経っていることもあり、やはり有力な情報を得ることは出来ずにいた。それでも、あきらめる気にはなれず、毎日このビルの屋上に来て、思いをあらたにしていた。彼女はいつものように、東側のフェンスから見える横浜の海を眺めた。夏の日差しで白くぼやけた穏やかな海が水平線の彼方の青空の端っこの青を滲ませ、薄い水色にしている。

 突然、男の叫び声が聞こえてきた。彼女はすぐに声のする方へと駆けていった――南側のエレベーター棟だ。するとそこには、さきほどの男が頭を抱えながら、倒れていた。

「どうしました? 大丈夫ですか?」

愛がそう声をかけると、彼女に男がすがりついてきた。

「お、女の人が……誰かが突き落されて……殺された」

「え? 何ですって」

彼女は思わず、大声になった。

 ぬかるんだ地面の上に敷かれた急場しのぎの木道を静かな足取りで川島刑事が現場入りした。現場にはすでに複数の鑑識員と石本とチャンの両刑事がいた。第五の死体は目の前に大きな横浜スタジアムが見える、横浜公園の西側にある公衆便所で発見された。

「仏さんの身元は?」

川島が訊いた。

「はい」チャンが答える。「財布に免許証がありました。名前は八代慎平さん、年齢は38歳です。死因は見てのとおり、首を切られたことによる失血死と思われます。死後、二日は経過していると思われます。個室で内側から鍵をかけられていたこと、大量の血はすべて便器の中に流れ出たため、外には出なかったこと、そしてこの二日間の大雨でほとんど人の利用がなかったことが発見を遅らせた原因だと思われます」

「第一発見者は?」

「市の清掃職員です。凶器や指紋は残されておらず、例のカードはありました」

今度は石本が答えた。

「土砂降り……人も寄りつかない……じゃあ足跡は? 足跡はどうだったんだ?」

「ありませんでした。被害者の靴跡も残ってはいなかったので、おそらく殺害時に雨はまだ降っていなかったと思われます。で、その後の大雨で二人の足跡は流されてしまったようです」

「そうか。今度のカードには何と?」

「はい」チャンが答える。「【Observer】とありました。“観察者”という意味です」

「てことは」石本が言う。「この仏さんが“観察者”? どういう意味だ?」

「それは調べてみないと分かりませんが、この間の被害者、宮津千代子さんのカードにあった、“革新者”という言葉と彼女の繋がりは結局、何も見つけられなかったじゃないですか。最初の三つのアルファベットがたまたまで、ヘタをすると、この言葉には何の意味も無いって可能性もあるかもしれません」

「意味がないだって?」石本が呆れたように言う。「じゃ、ホシは何のためにこんなことやっているっていうんだよ」

「僕は飽くまで、可能性の話をしているんですよ」

「よし、よし。もういい」川島が二人に割って入る。「アルファベットの詮索は後だ。とりあえず今は事件のあった日、この辺りで不審な人物を見かけた、あるいは何か物音を聞いた人がいなっかったか。近所を聞き込みにあたってくれ」

 石本とチャンが現場から離れ、川島と数名の鑑識の係員だけになった。

「しかし、ガイシャはまた何でこんなところで殺されたんだ?」

川島は狭い個室で便器の脇に押し込まれたように窮屈な姿勢の遺体を見つめた。すると、顔が上向きの遺体の目線の先に天井の点検口パネルが少し開いていることに気がついた。彼は隣との仕切り板についた手すりのスチール・パイプに足をかけ、上へと登った。そこへ、瞳が臨場した。

「川さん、何しているの?」

「ああ、瞳ちゃんか。何かおかしいんだ」

彼は仕切り板の縁を片手でつかみ、身体を支えながらもう一方の手で慎重に天井の点検口パネルを押し開いた。すると、そこからガラスの小瓶が落ちてきた。彼は素早く下に降り、床に落ちたその小瓶を拾い上げた。小瓶の中には白い紙が丸めて入れてあった。紙を取り出し、広げてみるとそこには暗号文らしきものが記されていた。それは横書きの文が縦に三列で表記され、一番上の文には【※】が九つ。真ん中の列は左はじの一文字だけが【R】であとは八つの【※】そして、一番下の文には【RSBPDHWIJ】と書かれていた。

「一体何なの? これは」

瞳が言った。

「さあな。暗号に間違いはないだろうが。チャンは、確かこうゆうのが得意じゃなかったか?」

「そうですね。署に戻って、みんなで調べてみましょう」

 ようやく落ち着きを取り戻した男と愛はエレベーター前のベンチに腰かけた。

「これ水です。どうぞ」

彼女はバックパックから、ペットボトルの水を取り出し、彼に差し出した。

「ありがとう。あなたは……」

「神山愛です」

彼はうなずくと、水を飲んだ。

「あの、実は私の姉、この屋上から何者かに突き落とされて殺されたんです」

「え?」

男が驚きの表情を見せる。

「あなたはさっき、ここから女性が突き落されて殺されたとそう言いましたよね? あれはどういうことですか? あなたはその現場を見たんですか? もし、何か知っているのなら教えて下さい。姉は誰に殺されたんですか?」

愛は男に詰め寄った。

「ぼ、僕は――」

彼はたじろぎ、おびえたように震えだした。

「ごめんなさい」彼女は慌てて謝った。「あなたを責めているわけじゃないんです。ただ、たった一人の家族だった姉の命を奪った犯人が私は絶対に許せないんです。犯人はまだ捕まらずに逃げ回っているんです。だから、もし何か事件のことを知っているのなら、どんなことでもいいですから、教えて欲しいんです。お願いします」

「僕は何も知りません」

「でも……」

「僕は記憶が無いんです」

彼女の言葉を遮るように言った。

「え?」

「自分が誰なのかもわかりません」

男はそう言うと、頭を抱えた。

「記憶喪失……?」

愛はそれ以上、言葉が続かなかった。

 3LDKの高級マンションの一室で、外出着に着替えた――ブーツカットのデニムにインナーにはスクエアネックのベージュのタンクトップ、アウターはネイビーのテーラードジャケット。謎の女性(右肩にトライアングルのホクロがある)は医療用の透明な手袋をはめると、机の引き出しから、【Scanner】と記されたカードを取り出した。

「フフ」

彼女は口元に不敵な笑みを浮かべると、カードを白い小さなバッグにしまい、玄関へと向かい、メタリックなシルバーのミュールを履き、通路へと出てドアを閉めた――『山田ハルコ』と記された表札が見える。

 《SOWA》には三つのチームがあり、一チームに五、六人の刑事が属し、基本的にはそれぞれ別の事件を担当している。瞳のチームには川島、石本、チャンの他に武田と松田という、ともに四十代の刑事がいるが、現在、武田は捜査中に右足を骨折してしまい、入院中で、松田の方は本庁での研修に参加している。

 陽が傾き、薄暗くなってきた夕方のオフィスには今、瞳と川島の二人しかいない。

川島は現場に残されていた暗号のコピーとにらめっこしているが、眉間に皺を寄せ、考え込む表情はまるで般若の面のようだった。

「大抵の暗号は既存の方式を使用しているはずです。けど、それがどの方式の暗号かわからないうちは、どうやっても、復号はできませんよ」瞳が微笑みながら言った。「チャン君はそういうのに詳しいから、彼が帰ってくれば――」

そこへ、タイミングよく石本とチャンの二人が聞き込みから戻ってきた。

「ダメでした。収穫はゼロです」

石本が言った。

「そう。ご苦労様」瞳が笑顔で迎える。「でも、こっちは新展開があったわよ」

「本当ですか? 何があったんですか?」

チャンが食いついた。川島が暗号を二人に見せる。

「なんだ、こりゃ?」

石本が怪訝な顔を見せる。

「ああ、ヴィジュネル暗号ですね」チャンは言った。「ジュール・ヴェルヌの『ジャガンダ』なんかに出てくる古典的な暗号ですよ」

「さすが」

瞳が拍手する。

「なら、おまえ解けるかこの暗号」

川島が言った。

「さあ、どうですかね。一応、やってみますが」チャンが自信なさげに答える。「まあ、平文と鍵の文字数が同じだということがこれはわかっているので――」

「鍵?」

石本が首をひねる。

「ああ、これは一番上にある文が平文、次の文が鍵、そして一番下の文が暗号文って言うんです」

「へえ、そうなんだ」

「それで、どうなる?」

川島がせかす。

「そうですね。鍵が一文字わかっているので、これが何かのヒントだと思うんですが」

「ヒント?」

瞳が言った。

「ええ、文字数があらかじめ表記してあるので、鍵となる文は【R】から始まる九つの文字を使った文章だと思うんですよ。もしも、それより短い文で、よくある反復する文字の羅列となると、九を三等分して、三文字ずつの単語とかそういう可能性もありますが、この鍵の周期性というのは問題があって、そのことはずいぶんと昔から……」

「ああ、なんだかむずかしいな。つまりはどういうことだ」

石本が痺れを切らす。

「だから、なんかRで始まる九文字の文章が見つけられればいいんじゃないかと」

「そうは言ってもなあ」

川島が頭をひねる。

「それは名前でもいいの?」

瞳が言った。

「ええ、条件にあっていれば」

「たしか、その暗号が見つかった現場の横浜公園にはリチャードなんとかの胸像があったんじゃない?」

「それだ」チャンが興奮気味に言った。「リチャード・ヘンリー・ブラントン。明治政府に雇われて、日本中に数多くの灯台を設置した人ですよ」

「つまり?」

川島が続きを促す。

「ファーストネームとミドルネームはイニシャルの頭文字だけで表記することはよくあるので……」チャンが紙に【RHBRUNTON】と書いてみせる。「彼はイギリスの建築家なので、イギリス英語風に略称のピリオドを省きました。これで鍵の文は間違いないと思います」

「スゴい」

瞳が感嘆の声をあげる。

「で、この先は?」

川島が訊いた。

「あとはヴィジュネル方陣という表を使って、まだ解読出来ていない平文を復号します。これは調べればすぐにできますから」

チャンがパソコンに向かう。

「しかし、暗号文とはふざけたヤツだ。ゲームか何かのつもりか」

石本が吐き捨てるように言った。

「確かに。でもこれは捜査に役立つ大きなヒントになるんじゃないかしら」

瞳が言った。

「ホシが俺たちの手助けをしてくれていると、そういうことですか?」

石本が腑に落ちない顔を見せる。



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