エスプレッシーヴォ

病院に向かう通勤電車は乗る場所をいつも決めている。
そうは言っても平日と土曜日はまったく異なる。
東京駅に向かう車両の中はスーツ姿のサラリーマンや身なりを整えた人たちが多い丸の内線だが、休日は後楽園に遊びに行くような家族連れの姿も多い。
地下鉄に乗っていても街を歩いていても両親と子どもという組み合わせはありふれている。色々な家族の形態がある現代だが、やはりこれが一番しっくりくるし、理想なのではないかと博樹は思う。通勤の途中で遭遇した同じ車両で泣きわめく三歳くらいの男児の声に耳を塞ぎたい気持ちになりながらも必死にあやす若い両親の姿をねぎらいたくなるし、尊敬したい気持ちにもなった。

週明けの月曜日は院内に妙な活気がある。それは週の初めだ、さあ頑張ろうという人たちと、休みの間我慢していた痛みや苦しみを訴えて訪れる受診者たちが入り交ざっているからと誰だったか同僚が言っていた。僕は先週末からの疲れを持ちこしてだるい月曜日を過ごしていた。医者だからっていつもパーフェクトに健康なわけじゃない。不健康な顔色で患者を診ることだってあるし、多少は飲みすぎることもあるし、なかには悪いとわかりながらタバコを吸うやつだっている。健康にいいこと、いつだって正しいことだけができるわけじゃないのだ。

あの土曜日の夜以来、桜井とは連絡をとっていない。それでいいのだと思う。自分たちにはその先はないのだから。

その夜帰ると瑛子はピアノを弾いていた。
いつもなら玄関の鍵を開ける音でピアノの演奏は止まるのだが、その音が聞こえなかったのか、瑛子はピアノを弾き続けていた。

このところ瑛子は少しおかしい。会話をしていてもよく聞いていないようだし、昨夜なんて一緒に食事をしていても間違えて噛んでいる途中のものを飲み込んでむせたり、お気に入りの食器を割ったりしていた。結婚して二ヶ月が過ぎて、慣れない生活に疲れが出て来たのかもしれない。

僕は気を遣うようにまるで泥棒のようにそっと靴を脱いで家に入り、リビングの扉をあける。耳に入ってくるメロディは懐かしいというほどではないが、聴いたことのあるものだった。その優しくも胸が痛くなるような切ない旋律に思い出す。ああ、少し前に瑛子が弾いていて、初めて僕が作曲家を言い当てたときの曲だ。

邪魔をしないようにと、可能な限り音を立てないように室内に入る。耳にはブラームスが切なくも優しく響いていた。しかしドアノブの音に気付くと瑛子はすぐに手を止めて扉を開けた博樹を見た。

「ごめんなさい、気が付かなくて」

瑛子は目を丸くして博樹を見て、本当に申し訳なさそうに顔をしかめた。でもそれは謝罪よりも苦悩という顔だった。

「いいんだ。今の、前に弾いてくれたブラームスの曲だよね?続けて」

博樹の言葉に口元だけ軽く笑顔を作った瑛子はしばし黙る。照れているようにも見えるし、戸惑っているようにも見えて、数秒の沈黙の後、やがて困惑した顔でつぶやくように言った。

「私には無理」

僕はその表情、言葉に思わず聞き返す。何のことかと思って聞くと、瑛子は僕ではなくピアノを見続けたまま、自分のためではない誰かのために泣くかのような苦しい顔で言った。

「ブラームスのような人生は、私にはとうていできないことよ」

恩師ロベルト・シューマンの妻クララを想い続けたブラームスの人生。
もちろん二人が付き合っていたというはっきりとした証拠はなく、ブラームスにとって恩師の妻であり、ただ音楽で繋がっている友人でもあっただろう。彼がどんな想いを抱えていたか、その真相はわからない。

でもはっきりとした関係や形がなくても、ブラームスがクララを大切に想い続けてきたことは美しすぎるこの作品からも切に伝わってくる。どれほど美しくても想い続けるだけの人生なんて、私にはできないのよ、と瑛子は言った。

「想うだけの人生なんてつらすぎるわ」

報われたい、努力したぶん結果が欲しい、というのと同じね。世の中は思い通りにいかないことばかりだけど。自嘲気味に少し笑って瑛子が付け足した。笑っているのに苦悩していた。眉間に皺を寄せて、口元は固く結ばれ、手のひらは強くスカートの上で固く強く握りしめて、その切ない横顔を見ているとこの世の想いすべてに行き場所があればいいのにと祈りたくなってしまう。クララを想うブラームスのことのはずが、ふと変わらずに自分を想い続けてくれていた1人の女性のことを思った。

僕の沈黙を気遣ってか、または自分のためか、瑛子は途中で止めた部分から再び弾き始める。鍵盤は瑛子の手によってまるで生き物のように柔らかく波を打った。感情の高まりを示すその部分に、この胸は打たれる。想うことの貴重さも素晴らしさも知りながら、切なさと苦しさが押し寄せる。本当の恋を知った人間なら味わったことがあるだろうもの。

エスプレッシーヴォ、表情豊かに、感情をこめて。想像しきれない想い。

室内に音楽のエネルギーが立ち込める。曲ごとに空間の雰囲気が変わるから音楽は不思議なものだ。今日のこの家は胸が痛くなるようなそんな空気だった。

僕はこのとき、瑛子が自分と桜井の関係を知っているとは微塵も思わなかった。

その週末、土曜日のことだった。

この週は勤務日で昼休みにスマートフォンを見ると母親からメールが届いていた。スレッド式で会話ができるアプリを導入してくれれば楽なのにと言っているのだが、昔から使っているドコモのメールが安心するらしい。たいしたことではないだろうと思いながらメールを見る。

「和樹そっちにいるんでしょう?保険の書類で確認して欲しいものがあります。次の水曜までには必ず戻るように言ってください。」

親子なのに敬語を使ういつもの母親らしいメールだが、それより、何より、ひっかかったのはその内容だ。医務室に人がいないのをいいことにすぐさま電話をかける。母親は3コールの後に電話に出て、はいはいと呑気な返事をした。

自分の中で事態が騒がしくなったのはその後だった。和樹と昨日から連絡がつかない状態であること。そして母親には当直と研修の都合で兄夫婦の家に滞在すると伝えてあること。

病院の研修じゃなくて、所属学会とかの研修なのかしらねえと母親は穏やかに言う。
僕はそんな話は聞いてないし、姿も見ていないと喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、母親に心配をかけないために適当に話を合わせて電話を切る。

何のためにそんなことをと思いながら家に帰って静まり返った暗い室内のその空気の異変に気付いたとき、僕はあらゆる不可解なことが自分にも関係ないことではないとわかった。

瑛子もまた、僕の前から姿を消したのだった。
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