エスプレッシーヴォ
東京発山形行きの新幹線の中で、瑛子は隣に座る男の寝顔を見た。
やっぱり兄弟というのはよく似ている。口には出さないが博樹と和樹の顔立ちは似ていた。
でも目を覚まして口を開けば全くの他人だとわかる。博樹なら「悪かったね、退屈させちゃったね」と言って申し訳なさそうに笑う。和樹は間違ってもそんなこと言わないだろう。途中の社内のアナウンスで目覚めた彼の第一声は「うるさい」で、瑛子に対しては不機嫌そうに「今どこ」と言うだけで、窓際に置いたエビアンのペットボトルの蓋を明けて無言でのどの渇きを潤しているだけだった。
窓の外に流れていた田園風景にもゴーッと響く新幹線の雑音にもだいぶ耳が慣れた。
その朝はいつもと変わりなかった。ハムエッグにご飯、ねぎと豆腐のお味噌汁、ほうれん草のお浸しというシンプルで簡単な朝食を揃えて、博樹を見送り、いつも通り朝食の後片付けをして、洗濯物を干して掃除機をかけ、窓際のドラセナとアイビーに水をやって家を出て来た。
正午に駅に東京駅で待ち合わせをして軽食を買って和樹と新幹線に乗り始めたときの気持ちはちょっとした友人との旅行のような気持ちで高揚感があったものの、和樹が眠り、車内で1人音楽を聴きながら、通り過ぎてゆく駅名を見て東京を離れてゆくことが実感に変わっていくにつれ、次第に瑛子は自分がとんでもないことをしているのではないかと思い始めた。
時計を見ると時刻は午後四時に近付いていた。今頃夕方の診察で疲れている頃だろうか。
博樹は今日は確か何も予定がないはずだから、午後七時か、遅くとも七時半には家に帰るはずだ。そしたらいつもいるはずの自分が家にいないことがわかってしまう。ただいま、瑛子?いないの?そんな博樹の声を想像するとしだいに胸が痛むようで、緊張感も高まる。
隣にいる博樹によく似た男はそんな自分の気持ちなどおかまいなしで眠っている。
なぜ彼は山形まで一緒に行く気になったのだろう。
あの夜、御茶ノ水の薄暗いビストロでワインを飲みながら言ったこと。別に好きじゃないから、という彼の言葉を思い出す。自分だったら好きじゃなければ、近づかない。距離を作って、場合によってはさようならだ。そして終わり。
でも和樹の行動は違う。マンションに来れば博樹に冗談を言うし、仕事の話だってしている。同じ職種としての情報交換、治療や薬についてのこと、本当は話したいことがあって家に来ているのだろうと思いながら、瑛子は自分の入れない話題をただ静かに聞きながら、料理やお酒を追加したり、食器を下げたりしていた。多少の皮肉や意見の衝突も含め、自分にはない兄弟のやりとりは微笑ましくも見えるもので、どちらかというと和樹の兄への想いは歪んだ愛情のようにも思えてきていた。なにしろ今回の山形行きを提案したのは彼だったのだ。
「気になるだろ?桜井由香のこと。会ってみる?」
そう言われた時、勢いで首を縦に振ったものの、今となっては不安でたまらなく、これでよかったのかわからないままだ。
新幹線の窓の外の景色はすごいスピードで流れてゆく。東京駅で買った冷たいカフェラテはすっかりぬるくなり、のどの渇きを潤すどころか口の中をべたつかせるだけで不快だった。新幹線を降りたら六月の東北が待っている。東京よりいくらか涼しければいいがと淡い期待を抱いて薄いカーディガンを羽織ってきた。旦那の昔の恋人に会ってどうするのだろう。会って何かが解決するのだろうか。家をあけて博樹に心配してもらいたいだけか。自分の気持ちさえ把握できない状況のなか、新幹線は山形駅に着いた。
「夜は山形牛を食べに行こう」
二泊はできる荷物を詰めた小さなボストンバッグを持った瑛子と、同じく最小限の旅行の荷物を持った和樹は山形駅構内を連れだって歩く。シャツにハーフパンツ、スニーカーという軽装の彼は単なる旅行客にしか見えない。瑛子は黒地に小花柄のシフォン素材のワンピースに白いカーディガンを肩からかけており、並んで歩く若い二人は恋人にも見えるかもしれない。山形駅は東京駅に比べると当然だが規模はとても小さく、知り合いでもいたらすぐにわかりそうなくらい人も多くなかった。
駅から直結のホテルに二人でチェックインする。一泊はこのホテルに予約をとってあるが、もう一泊はどこに行くつもりなのだろう。
二泊分の荷造りをしたときの自分の心境は、いまだにわからない。実家に帰ることになるか、友人の家に泊めてもらうことになるか。とにかくあのマンションに帰れないことも考えたことは間違いない。
和樹と並びの部屋に荷物を置いて街に出る。和樹の口から桜井由香という名前は今日一度も出ていない。気を遣っているのだろうかとも思ったが、事の経緯や彼の性格からしてそれは考えにくかった。単に今この状況を楽しんでいるだけに思えて、瑛子は自己嫌悪に陥りそうになる。いくら博樹の弟であっても男性と二人で新幹線に乗って並びの部屋のホテルを予約して、二人で知らない街を歩いている。その事実に改めて気づくと、とたんに調子が狂ってしまう。通路に貼られた観光案内のポスターを数秒見ていた間に少し前を歩く彼との距離ができてしまう。駅の出口からエスカレーターで下ってゆく和樹の姿が見えなくなってゆく。追いかけるようにエスカレーターにのると、降りたところで和樹が腕組みをしながら待っていた。
「山形牛に異論あり?」
胸の内では遅い、と言うようにわざと不服そうにみせながら表情は活き活きとしていて博樹によく似た目を輝かせて、私に微笑む。嫌味を言われた方がいいのに、と思ってしまうほど、そのよく似た顔が瑛子を戸惑わせる。
「異論、ないわ」
よし、と張り切って歩き始めた彼の後姿はエネルギッシュで、これが三十代の博樹との違いだろうか、なんて思う。もっとも服装も髪型も違う。博樹はこんなハーフパンツもはかないし、髪型だって和樹はずっとラフな感じだ。社会人になって間もない和樹と、現場で活躍している30代の博樹では違うのも当たり前かもしれないが、仕草や口調も一つ一つが違う。博樹だったら先に歩いて行ってしまうということはなく常に私を気にかけて隣を並んで歩く。話をするときは並んでいても顔はもちろん体も若干こちらを向けて、うん、うんと微笑みながら聞いている。多少は聞き流されているだろうなと思いながら、そういう態度をとってくれる博樹の優しさが好きだ。たとえ患者や自分以外の人の話も同じようにして聞いていたとしても。そんなことを思い出してみて、瑛子は自分がどれほど博樹を愛おしいのかを感じる。
ところで桜井さんと和樹はどういう関係なのだろう?聞きだすタイミングはいつでもあるようでなくて、結局聞けなかった。いつだってそうだ。本当に言いたいことはいつも言えない。聞きたいことも聞けない。でも相手はそんなことわからないから、私がいつでも素直な気持ちを伝えていると思っている。もっと言いたいことも聞きたいこともあるのに。言葉にしなくてもわかって欲しいというのは傲慢だろうか。
鉄板焼きの店ですでに店内に立ち込めるおいしい匂いの中で一杯目のビールを飲みながら、カウンターの向こうの壁にかかった時計を見る。時刻は午後七時をまわっていた。土曜日だから、きっと博樹はもう家にいるだろう。暗い室内に何を思うだろうかと思うと胸が強く打った。瑛子は電源を切ったままのスマートフォンをバッグから取り出してみて、気にしてみて、でもやっぱりそのまま戻した。
牛肉に合う山形の赤ワインを1本空け、ホテルに戻ってエレベーターに乗り、並びのドアの向かいに立っておやすみを言った瑛子に和樹が言った。
「少し飲まない?」
帰り道のコンビニエンスストアで買った缶のチューハイとビール数本の入った小袋を顔の位置まで持ち上げて笑っていた。いろいろ買ってるなあと思いながら、まさか一緒に飲もうと思っていたとは考えなかった。お酒を飲んでも顔色が変わらないのも兄と同じだったし、瑛子もまた同じだった。
時間が気になるわけではなかったし、どちらかと言えば1人になって余計なことを考えたくなかった瑛子は和樹の部屋に入った。それがよかったのかよくなかったのか、瑛子にはわからなかった。
やっぱり兄弟というのはよく似ている。口には出さないが博樹と和樹の顔立ちは似ていた。
でも目を覚まして口を開けば全くの他人だとわかる。博樹なら「悪かったね、退屈させちゃったね」と言って申し訳なさそうに笑う。和樹は間違ってもそんなこと言わないだろう。途中の社内のアナウンスで目覚めた彼の第一声は「うるさい」で、瑛子に対しては不機嫌そうに「今どこ」と言うだけで、窓際に置いたエビアンのペットボトルの蓋を明けて無言でのどの渇きを潤しているだけだった。
窓の外に流れていた田園風景にもゴーッと響く新幹線の雑音にもだいぶ耳が慣れた。
その朝はいつもと変わりなかった。ハムエッグにご飯、ねぎと豆腐のお味噌汁、ほうれん草のお浸しというシンプルで簡単な朝食を揃えて、博樹を見送り、いつも通り朝食の後片付けをして、洗濯物を干して掃除機をかけ、窓際のドラセナとアイビーに水をやって家を出て来た。
正午に駅に東京駅で待ち合わせをして軽食を買って和樹と新幹線に乗り始めたときの気持ちはちょっとした友人との旅行のような気持ちで高揚感があったものの、和樹が眠り、車内で1人音楽を聴きながら、通り過ぎてゆく駅名を見て東京を離れてゆくことが実感に変わっていくにつれ、次第に瑛子は自分がとんでもないことをしているのではないかと思い始めた。
時計を見ると時刻は午後四時に近付いていた。今頃夕方の診察で疲れている頃だろうか。
博樹は今日は確か何も予定がないはずだから、午後七時か、遅くとも七時半には家に帰るはずだ。そしたらいつもいるはずの自分が家にいないことがわかってしまう。ただいま、瑛子?いないの?そんな博樹の声を想像するとしだいに胸が痛むようで、緊張感も高まる。
隣にいる博樹によく似た男はそんな自分の気持ちなどおかまいなしで眠っている。
なぜ彼は山形まで一緒に行く気になったのだろう。
あの夜、御茶ノ水の薄暗いビストロでワインを飲みながら言ったこと。別に好きじゃないから、という彼の言葉を思い出す。自分だったら好きじゃなければ、近づかない。距離を作って、場合によってはさようならだ。そして終わり。
でも和樹の行動は違う。マンションに来れば博樹に冗談を言うし、仕事の話だってしている。同じ職種としての情報交換、治療や薬についてのこと、本当は話したいことがあって家に来ているのだろうと思いながら、瑛子は自分の入れない話題をただ静かに聞きながら、料理やお酒を追加したり、食器を下げたりしていた。多少の皮肉や意見の衝突も含め、自分にはない兄弟のやりとりは微笑ましくも見えるもので、どちらかというと和樹の兄への想いは歪んだ愛情のようにも思えてきていた。なにしろ今回の山形行きを提案したのは彼だったのだ。
「気になるだろ?桜井由香のこと。会ってみる?」
そう言われた時、勢いで首を縦に振ったものの、今となっては不安でたまらなく、これでよかったのかわからないままだ。
新幹線の窓の外の景色はすごいスピードで流れてゆく。東京駅で買った冷たいカフェラテはすっかりぬるくなり、のどの渇きを潤すどころか口の中をべたつかせるだけで不快だった。新幹線を降りたら六月の東北が待っている。東京よりいくらか涼しければいいがと淡い期待を抱いて薄いカーディガンを羽織ってきた。旦那の昔の恋人に会ってどうするのだろう。会って何かが解決するのだろうか。家をあけて博樹に心配してもらいたいだけか。自分の気持ちさえ把握できない状況のなか、新幹線は山形駅に着いた。
「夜は山形牛を食べに行こう」
二泊はできる荷物を詰めた小さなボストンバッグを持った瑛子と、同じく最小限の旅行の荷物を持った和樹は山形駅構内を連れだって歩く。シャツにハーフパンツ、スニーカーという軽装の彼は単なる旅行客にしか見えない。瑛子は黒地に小花柄のシフォン素材のワンピースに白いカーディガンを肩からかけており、並んで歩く若い二人は恋人にも見えるかもしれない。山形駅は東京駅に比べると当然だが規模はとても小さく、知り合いでもいたらすぐにわかりそうなくらい人も多くなかった。
駅から直結のホテルに二人でチェックインする。一泊はこのホテルに予約をとってあるが、もう一泊はどこに行くつもりなのだろう。
二泊分の荷造りをしたときの自分の心境は、いまだにわからない。実家に帰ることになるか、友人の家に泊めてもらうことになるか。とにかくあのマンションに帰れないことも考えたことは間違いない。
和樹と並びの部屋に荷物を置いて街に出る。和樹の口から桜井由香という名前は今日一度も出ていない。気を遣っているのだろうかとも思ったが、事の経緯や彼の性格からしてそれは考えにくかった。単に今この状況を楽しんでいるだけに思えて、瑛子は自己嫌悪に陥りそうになる。いくら博樹の弟であっても男性と二人で新幹線に乗って並びの部屋のホテルを予約して、二人で知らない街を歩いている。その事実に改めて気づくと、とたんに調子が狂ってしまう。通路に貼られた観光案内のポスターを数秒見ていた間に少し前を歩く彼との距離ができてしまう。駅の出口からエスカレーターで下ってゆく和樹の姿が見えなくなってゆく。追いかけるようにエスカレーターにのると、降りたところで和樹が腕組みをしながら待っていた。
「山形牛に異論あり?」
胸の内では遅い、と言うようにわざと不服そうにみせながら表情は活き活きとしていて博樹によく似た目を輝かせて、私に微笑む。嫌味を言われた方がいいのに、と思ってしまうほど、そのよく似た顔が瑛子を戸惑わせる。
「異論、ないわ」
よし、と張り切って歩き始めた彼の後姿はエネルギッシュで、これが三十代の博樹との違いだろうか、なんて思う。もっとも服装も髪型も違う。博樹はこんなハーフパンツもはかないし、髪型だって和樹はずっとラフな感じだ。社会人になって間もない和樹と、現場で活躍している30代の博樹では違うのも当たり前かもしれないが、仕草や口調も一つ一つが違う。博樹だったら先に歩いて行ってしまうということはなく常に私を気にかけて隣を並んで歩く。話をするときは並んでいても顔はもちろん体も若干こちらを向けて、うん、うんと微笑みながら聞いている。多少は聞き流されているだろうなと思いながら、そういう態度をとってくれる博樹の優しさが好きだ。たとえ患者や自分以外の人の話も同じようにして聞いていたとしても。そんなことを思い出してみて、瑛子は自分がどれほど博樹を愛おしいのかを感じる。
ところで桜井さんと和樹はどういう関係なのだろう?聞きだすタイミングはいつでもあるようでなくて、結局聞けなかった。いつだってそうだ。本当に言いたいことはいつも言えない。聞きたいことも聞けない。でも相手はそんなことわからないから、私がいつでも素直な気持ちを伝えていると思っている。もっと言いたいことも聞きたいこともあるのに。言葉にしなくてもわかって欲しいというのは傲慢だろうか。
鉄板焼きの店ですでに店内に立ち込めるおいしい匂いの中で一杯目のビールを飲みながら、カウンターの向こうの壁にかかった時計を見る。時刻は午後七時をまわっていた。土曜日だから、きっと博樹はもう家にいるだろう。暗い室内に何を思うだろうかと思うと胸が強く打った。瑛子は電源を切ったままのスマートフォンをバッグから取り出してみて、気にしてみて、でもやっぱりそのまま戻した。
牛肉に合う山形の赤ワインを1本空け、ホテルに戻ってエレベーターに乗り、並びのドアの向かいに立っておやすみを言った瑛子に和樹が言った。
「少し飲まない?」
帰り道のコンビニエンスストアで買った缶のチューハイとビール数本の入った小袋を顔の位置まで持ち上げて笑っていた。いろいろ買ってるなあと思いながら、まさか一緒に飲もうと思っていたとは考えなかった。お酒を飲んでも顔色が変わらないのも兄と同じだったし、瑛子もまた同じだった。
時間が気になるわけではなかったし、どちらかと言えば1人になって余計なことを考えたくなかった瑛子は和樹の部屋に入った。それがよかったのかよくなかったのか、瑛子にはわからなかった。